・・・僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は見えません。のみならずかえって深くなるのです。僕は一時間ばか・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・そして最後の一瞥を例の眠たげな、鼠色の娘の目にくれて置いて、灰色の朝霧の立ち籠めている、湿った停車場の敷石の上に降りた。 * * *「もう五分で六時だ。さあ、時間だ。」検事はこ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・り、髪も壊れず七兵衛が船に助けられて、夜があけると、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸って未だ雫も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠む中に、しとしとと落ちて、一・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 昨日一昨日雨降りて、山の地湿りたれば、茸の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に馴れて、あたりの地味・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・柳屋の柳の陰に、門走る谿河の流に立つ姿は、まだ朝霧をそのままの萩にも女郎花にも較べらるる。が、それどころではない。前途のきづかわしさは、俥もこの宿で留まって、あとの山路は、その、いずれに向っても、もはや通じないと言うのである。 茶店の縁・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・…… 下の谷間に朝霧が漂うて、アカシアがまだ対の葉を俯せて睡っている、――そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、小さなのは褞袍の中に負ぶって、前の杉山の下で山笹の筍など抜いて遊んでいる。「お早うごいす」 ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・の中でも別段に凝り固まり、間がな隙がな、尺八を手にして、それを吹いてさえいれば欲も得もなく、朝早く日の昇らぬうちに裏の山に上がって、岩に腰をかけて暁の霧を浴びながら吹いていますと、私の尺八の音でもって朝霧が晴れ、私の転ばす音につれて日がだん・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 十八日、朝霧いと深し。未明狐禅寺に到り、岩手丸にて北上を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山飛で一山来るとも云うべき景にて、眼忙しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜しく、淀の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情を・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・谷間を覗いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみたいな。」「だいじょうぶかい?」「ああ、もうからだは、すっかりいいんだ。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・すぐ足もとから百丈もの断崖になっていて、深い朝霧の奥底に海がゆらゆらうごいていた。「いい景色でしょう?」 雪は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。 私は、雪を押した。「あ!」 口を小さくあけて、嬰児のよう・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫