・・・なんでもチャックの話によれば、このステュディオでは写真をとると、トックの姿もいつの間にか必ず朦朧と客の後ろに映っているとかいうことです。もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。現にその話をした時にも悪意のある微・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・オルガンティノは喘ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。 人影は見る間に鮮かになった。それはいずれも見慣れない、素朴な男女の一群だった。彼等は皆頸のまわりに、緒にぬいた玉を飾りながら、愉快・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・小さい円の中の彼の顔は全体に頗る朦朧とした上、鼻ばかり非常にひろがっている。幸いにそれでも彼の心は次第に落着きを取り戻しはじめた。同時にまた次第に粟野さんの好意を無にした気の毒さを感じはじめた。粟野さんは十円札を返されるよりも、むしろ欣然と・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・……第一見えそうな位置でもないのに――いま言った黄昏になる頃は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門も、欄干も、襖も、居る畳も、ああああ我が影も、朦朧と見えなくなって、国中、町中にただ一条、その桃の古小路ばかりが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・こんな有様で、昼夜を分たず、ろくろく寝ることもなければ、起きるというでもなく、我在りと自覚するに頗る朦朧の状態にあった。 ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果て・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧として頭の円い、袖の平たい、入道であった。 女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。 時に身じろぎをしたと覚しく、彳んだ僧の姿は、張板の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台購い、長袖の法被に長股引、黒い饅頭笠といういでたちで、南地溝の側の俥夫の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・頭も朦朧としていたが、寄って来る円タクも朦朧だった。「天下茶屋まで五円で行け!」「十円やって下さいよ」「五円だと言ったら、五円だ!」「じゃ、八円にしときましょう」「五円!」「じゃ、七円!」「行けと言ったら行け! ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・頓て其蒼いのも朦朧となって了った…… どうも変さな、何でも伏臥になって居るらしいのだがな、眼に遮ぎるものと云っては、唯掌大の地面ばかり。小草が数本に、その一本を伝わって倒に這降りる蟻に、去年の枯草のこれが筐とも見える芥一摘みほど――・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・月はさやかに照り、これらの光景を朦朧たる楕円形のうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩るやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫が水を摶つごとに細紋起きてしばら・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫