・・・僕は木下杢太郎君ではないから、何サンチメートルくらいな割合で、揺れるのかわからないが、揺れる事は、確かに揺れる。嘘だと思ったら、窓の外の水平線が、上ったり下ったりするのを、見るがいい。空が曇っているから、海は煮切らない緑青色を、どこまでも拡・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
・・・ 木下闇、その横径の中途に、空屋かと思う、廂の朽ちた、誰も居ない店がある…… 四 鎖してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に雛壇・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・妻は叫ぶ、坂部さんがいなければ木下さんへゆけってこかねい。坂部さんはどうしたんだろうねい。坂部さんへまた見にゆきましたというものがあった。妻は上げた時すぐに奈あちゃんやって呼んだら、どうも返事をしたようであったがねい。返事ではなかったのかし・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 当時の欧化は木下藤吉郎が清洲の城を三日に築いたと同様、外見だけは如何にも文物燦然と輝いていたが、内容は破綻だらけだった。仮装会は啻だ鹿鳴館の一夕だけでなくて、この欧化時代を通ずる全部が仮装会であった。結局失態百出よりは滑稽百出の喜劇に・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・亀井戸の金糸堀のあたりから木下川辺へかけて、水田と立木と茅屋とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波でわかる。筑波の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼しげに響くを聞く。それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まり・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲いで天下を処理した時の勢も万人の耳目を聳動したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加に叶って今かく貴い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるか・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下繁、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬の的となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・黄昏に、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことを妙にひとなつこく搦んで来るような口調で言った。痩せていて背のきわめてひ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・の校正が来ていたからすぐに訂正して木下君の部屋へ持って行った。自分の室へ帰って先日国民美術協会でやった講演「雲の話」の筆記を校正していた。一、二頁見ているうちに急に全身が熱くなって来た。蒸風呂にでもはいったようで室内の空気がたまらなく圧しつ・・・ 寺田寅彦 「病中記」
出典:青空文庫