・・・太空は一片の雲も宿めないが黒味わたッて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇顔の電気燈は、軒より下の物の影を往来へ投げておれど、霜枯三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試しがない。必竟われらは一種の潮流の中に生息して・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・然るに未だ一年をも経ない中に、眼を疾んで医師から読書を禁ぜられるようになった。遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものは惨じめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校を卒えてからす・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・ 私は未だ極道な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許りの所だった。船は、ドックに入っていた。 私は大分飲んでいた。時は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・改進は上流にはじまりて下流に及ぼすものなれば、今の日本国内において改進を悦ぶ者は上流の一方にありて、下流の一方は未だこれに達すること能わず。すなわち廃藩置県を悦ばざる者なり、法律改定を好まざる者なり、新聞の発行を嫌う者なり、商売工業の変化を・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・されば未だ全く人の意を見わすに足らず。蓋し人の意は我脳中の人に於て見わるるものなれど、実際箇々の人に於て全く見わるるものにあらず。其故如何と尋るに、実際箇々の人に於ては各々自然に備わる特有の形ありて、夫の人の意も之が為に妨げられ遂に全く見わ・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ 曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳挙げて和歌の師とす、推奨最つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋の中に住んで世と容れ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・特務曹長「然るに私共は未だ不幸にしてその機会を得ず充分適格に閣下の勲章を拝見するの光栄を所有しなかったのであります。」大将「それはそうじゃ、今までは忙がしかったじゃからな。」特務曹長「閣下。この機会をもちまして私共一同にとくとお・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 馬鹿らしい独言を云って机の上に散らばった原稿紙や古ペンをながめて、誰か人が来て今の此の私の気持を仕末をつけて呉れたらよかろうと思う。 未だお昼前だのに来る人の有ろう筈もなしと思うと昨日大森の家へ行って仕舞ったK子が居て呉れたらと云・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・当時未だ三十歳に相成らざる某、この詞を聞きて立腹致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人らしき申条なり、さりながら某はただ主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと仰せられ候わば、鉄壁なりとも乗取り申すべく、あの首を取れと仰せら・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫