・・・この女房の母親で、年紀の相違が五十の上、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子である所為で、それ、黒のけんちゅうの羽織を着て、小さな髷に鼈甲の耳こじりをちょこんと極めて、手首に輪数珠を掛けた五十格好の婆が背後向・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 末子であるから埒もなくかわいいというわけではないのだ。この子はと思うのは彼の母ばかりではなく、父の目にもそう見えた。 午後は奈々子が一昼寝してからであった、雪子もお児もぶらんこに飽き、寝覚めた奈々子を連れて、表のほうにいるようすで・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れたあとをうけ、慶応三年六月十七日、第九番目の末子として、彼川那子丹造が生れた頃は、赤・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ さて然らば先生は故郷で何を為ていたかというに、親族が世話するというのも拒んで、広い田の中の一軒屋の、五間ばかりあるを、何々塾と名け、近郷の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子を対手に一人の老僕に家事を任かして。 こ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ と聞いてみると、末子のがあり、下女のお徳のがある。いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚の女の子の背丈までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文の足袋をはいた。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・古い鏡台古い箪笥、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子が髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。 あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずで・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・、お母さんは水野さんが赤ん坊のころになくなられ、またお父さんも水野さんが十二のときにおなくなりになられて、それから、うちがいけなくなって、兄さん二人、姉さん一人、みんなちりぢりに遠い親戚に引きとられ、末子の水野さんは、お店の番頭さんに養われ・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・三十年以前に死んだ父の末子であった私は、大阪にいる長兄の愛撫で人となったようなものであった。もちろん年齢にも相当の距離があったとおりに、感情も兄というよりか父といった方が適切なほど、私はこの兄にとって我儘な一箇の驕慢児であることを許されてい・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・俄かにラクシャンの末子が叫ぶ。「火が燃えている。火が燃えている。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん拡がります。」ラクシャン第一子がびっくりして叫ぶ。「熔岩、用意っ。灰をふらせろ、えい、畜生、何だ、野火か。」その声・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ 姉娘が、母の手許からすりぬけて来た末子を、「坊やちゃん、ここよ」と自分の前に立たす。パチン。 男の子はすぐ歩き出して、写生している傘の中を覗いた。紙の上と実物の雁来紅の植込みとを、幾度も幾度も見較べた揚句、些か腑に落ちぬ顔・・・ 宮本百合子 「百花園」
出典:青空文庫