・・・栄子は近所に住んでいる踊子仲間の二、三人をもさそってくれて、わたくしを吉原の角町、稲本屋の向側の路地にある「すみれ」という茶漬飯屋まで案内してくれたことがあった。水道尻の方から寝静った廓へ入ったので、角町へ曲るまでに仲の町を歩みすぎた時、引・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・先生は最初感情の動くがままに小説を書いて出版するや否や、忽ち内務省からは風俗壊乱、発売禁止、本屋からは損害賠償の手詰の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕に等しき悪名が、今はもっけの幸に、高等遊民不良少・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・剰え、最初は自分の名では出版さえ出来ずに、坪内さんの名を借りて、漸と本屋を納得させるような有様であったから、是れ取りも直さず、利のために坪内さんをして心にもない不正な事を為せるんだ。即ち私が利用するも同然である。のみならず、読者に対してはど・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・が先日ここで落ちあった二人の話で見ると、石塔は建てたが遺稿は出来ないという事だ。本屋へ話したが引き受けるという者はなし、友達から醵金するといっても今石塔がやっと出来たばかりでまた金出してくれともいえず、来年の年忌にでもなったらまた工夫もつく・・・ 正岡子規 「墓」
・・・伊藤君と行って本屋へ教科書を九冊だけとっておいてもらうように頼んでおいた。四月七日 火、朝父から金を貰って教科書を買った。 そして今日から授業だ。測量はたしかに面白い。地図を見るのも面白い。ぜんたいここらの田や畑でほんと・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ただひとりその中に町はずれの本屋の主人が居ましたが山男の無暗にしか爪らしいのを見て思わずにやりとしました。それは昨日の夕方顔のまっかな蓑を着た大きな男が来て「知って置くべき日常の作法。」という本を買って行ったのでしたが山男がその男にそっくり・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・そして本家本元のソヴェト同盟では厳密に批判され、本屋に本も出ていないようなコロンタイズムが流布することを知って、非常に苦しいような驚いた心持がしたのを今もはっきり覚えている。 コロンタイズムは、全く一九一七年から二三年間の混乱期にふるい・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・その後、日本の民主化にいろいろの変調が加えられて、たとえば用紙割当委員会の権限が、ずるずると内閣に属す委員会に移され、文化材の合理的割当を口実に、官僚統制、赤本屋委員会に堕してしまうころから、吉田茂の明るい展望が記者団との会見で語られるよう・・・ 宮本百合子 「「委員会」のうつりかわり」
・・・ わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈の如くに積み畳ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そ・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・その横には鎧のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでいる。そこの暗い海底のようなメリンスの山の隅では痩せた姙婦が青ざめた鰈のように眼を光らせて沈んでいた。 その横は女学校の門である。午後の三時になると彩色された処女の波が・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫