・・・同じ汽車にて本庄まで行き、それより児玉町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
暑気にあたって、くず湯をたべタオルで汗を拭きながら、本庄陸男さんの死について考えていた。 先頃平林彪吾さんが死なれたときも、様々な感想にうたれたのであったが、本庄さんが「石狩川」一篇をのこして、その出版と殆ど同時に・・・ 宮本百合子 「作家の死」
・・・ さきにあげたいくつかの日本史に関する本を読んだ人、または本庄栄治郎著「日本社会史」一冊を理解している読者は、「日本的性格」の中に語られている文化伝統の解釈について、いくつかの疑問を抱かずにいられまいと思う。例えば日本の貴族は、西洋の歴・・・ 宮本百合子 「世代の価値」
・・・その大家が本庄という軍人で、その人は満州に行っており、細君がしっかり者で借家の監督をやっている。その人から借りたわけでしたが、当時はぼんやりしていたが、満州事件が起ってから新聞で見ると、かつて大家であった本庄という軍人は、外ならぬ関東軍指令・・・ 宮本百合子 「「伸子」について」
・・・今野大力、今村恒夫、本庄陸男、黒島伝治など。とくに今野大力と今村恒夫は、一九三〇年から三三年にかけてのプロレタリア文学運動のなかで、ふかく日常的にもつながりあった仲間であった。譲原さんは、この人々との関係からみれば、たった二度だけ会った友達・・・ 宮本百合子 「譲原昌子さんについて」
・・・ 殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門直次、大塚喜兵衛種次、内藤長十郎元続、太田小十郎正信、原田十次郎之直、宗像加兵衛景定、同吉太夫景好、橋谷市蔵重次、井原十三郎吉正、田中意徳、本庄喜助重正、伊藤太左衛門方高、右田因幡統安、野田喜兵・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・松井田より汽車に乗りて高崎に抵り、ここにて乗りかえて新町につき、人力車を雇いて本庄にゆけば、上野までの汽車みち、阻礙なしといえり。汽車は日に晒したるに人を載することありて、そのおりの暑さ堪えがたし、西国にてはさぞ甚しからん。このたびの如き変・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫