・・・食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。且つ又恋はそう云うもののうちでも、特・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・それはちょっとした驚きと一しょに何か本能的な憎しみを閃かせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。「ええ、M子もそんなことを申しておりました。」 僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁先の手すりにつかまり、松・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった風呂敷を三角に折って露西亜人のように頬かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の鍬で・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・人間には誰にもこの本能が大事に心の中に隠されていると私は信じている。この本能が環境の不調和によって伸びきらない時、すなわちこの本能の欲求が物質的換算法によって取り扱われようとする時、そこにいわゆる社会問題なるものが生じてくるのだ。「共産党宣・・・ 有島武郎 「想片」
・・・に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。 魚住氏はこの一見収攬しがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・輩金さえあれば誰にも出来る下劣な娯楽、これを事とする連中に茶の湯の一分たりと解るべき筈がない、茶の湯などの面白味が少しでも解る位ならば、そんな下等な馬鹿らしい遊びが出来るものでない、故福沢翁は金銭本能主義の人であったそうだが、福翁百話の・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・新たに青み加わるさやさやしさ、一列に黄ばんだ稲の広やかな田畝や、少し色づいた遠山の秋の色、麓の村里には朝煙薄青く、遠くまでたなびき渡して、空は瑠璃色深く澄みつつ、すべてのものが皆いきいきとして、各その本能を発揮しながら、またよく自然の統一に・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・それは、代々からの神経に伝わっている本能的のおそれのようにも思われました。あのいい音色で歌う鳥は、姿もまた美しいには相違ないけれど、みずみずしい木の芽を見つけると、きっと、それをくちばしでつついて、食い切ってしまうからです。そのくせ、鳥は木・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ しかし、こうした話が持ち上がると、自由を慕う本能が、みんなの心の中に目覚めたのでした。「ゆこう、ゆこう、ここで、こうして意気地なく、この冬を送るよりか、翼の力のつづくかぎり、広い、自由な、そして、安全な世界を探しに出かけようじゃな・・・ 小川未明 「がん」
・・・お君の関心が豹一にすっかり移ってしまったので、安二郎は豹一の存在を徳とし、豹一の病気を本能的に怖れていても公然とはいやな顔をしなかった。 しかし豹一は二月も寝ていなかった。絶えず何かの義務を自分に課していなければ気のすまぬ彼は、無為徒食・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫