一 僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好い。彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室の・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ そこで、斉広は、本郷の屋敷へ帰ると、近習の侍に向って、愉快そうにこう云った。「煙管は宗俊の坊主にとらせたぞよ。」 五 これを聞いた家中の者は、斉広の宏量なのに驚いた。しかし御用部屋の山崎勘左衛門、御納・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが――歩行悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、大な煉瓦を潜って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行いただけで甲・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「どこへ、本郷座? 東京座? 新富座?」「どこでもいいや、ね、それは僕の胸にあるんだ」「あたい、役者になれば、妹もなりたがるにきまってる。それに、あたいの子――」「え、お前の子供があるんか?」「もとの旦那に出来た娘なの」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 一と頃江戸図や武鑑を集めていた事があった。本郷の永盛の店頭に軍服姿の鴎外を能く見掛けるという噂を聞いた事もある。その頃偶っと或る会で落合った時、あたかも私が手に入れた貞享の江戸図の咄をすると、そんな珍本は集めないよ、僕のは安い本ばかり・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 佐伯が死んだという噂が東京の本郷あたりで一再ならず立ち、それが大阪にいる私の耳にまで伝わってきたのは、その頃のことだ。本当に死んでしまったのかとそのアパートを訪れてみると、佐伯はまだ生きていて、うっかり私が洩らしたその噂をべつだん悲し・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 庄之助が懐の金を心配しながら、寿子と二人で泊っていた本郷の薄汚い商人宿へは、新聞記者やレコード会社の者や、映画会社の使者や、楽壇のマネージャー達がつめかけた。 彼等は異口同音に「天才」という言葉を口にした。すると、庄之助は何思った・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・家を捜すのにほっとすると、実験装置の器具を注文に本郷へ出、大槻の下宿へ寄った。中学校も高等学校も大学も一緒だったが、その友人は文科にいた。携わっている方面も異い、気質も異っていたが、彼らは昔から親しく往来し互いの生活に干渉し合っていた。こと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
出典:青空文庫