・・・渋味のある朱色でいや味のない古雅な色がなつかしい。省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・溪側にはまた樫や椎の常緑樹に交じって一本の落葉樹が裸の枝に朱色の実を垂れて立っていた。その色は昼間は白く粉を吹いたように疲れている。それが夕方になると眼が吸いつくばかりの鮮やかさに冴える。元来一つの物に一つの色彩が固有しているというわけのも・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・麻の葉模様の緑がかった青い銘仙の袷に、やはり銘仙らしい絞り染の朱色の羽織をかさねていた。僕はマダムのしもぶくれのやわらかい顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでもないのに、それでも強く、とむねを突かれた。色が抜け・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・大きい朱色の額に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・煙草屋のおばさんから、バットを五つ受取って、緑のいろばかりで淋しいから、一つお返しして、朱色の箱の煙草と換えてもらったら、お金が足りなくなって困った。おばさんが笑って、あとでまた、と言って下さったので嬉しかった。緑の箱の上に、朱色の箱を一つ・・・ 太宰治 「千代女」
・・・ あらゆる花の中でも花の固有の色が単純で遠くから見てもその一色しか見えない花と、色の複雑な隈取りがあって、少し離れて見ると何色ともはっきり分らないで色彩の揺曳とでも云ったようなものを感じる花とがある。朱色の罌粟や赤椿などは前者の例であり、紫・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣のまわりを飛んだ。起重機の響……。 ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。「あら、これ、家の娘さんで・・・ 宮本百合子 「街」
・・・燃え下がった蝋燭の長く延びた心が、上の端は白くなり、その下は朱色になって、氷柱のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛り上がっている。澄み切った月が、暗く濁った燭の火に打ち勝って、座敷はいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どれも朱色の塗で、鳥のように擡げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。 生花の日は花や実をつけた灌木の枝で家の中が繁った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対い、それを断り落す木鋏の鳴る音が一日・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫