・・・勿論そう云う暮しの中にも、村人の目に立たない限りは、断食や祈祷も怠った事はない。おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝らした。この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。「憐みのおん・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間か、どッと溜った。 謹三の袖に、ああ、娘が、引添う。…… あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血になって湧いて、涙を絞って流落ちた。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 一二軒、また二三軒。山吹、さつきが、淡い紅に、薄い黄に、その背戸、垣根に咲くのが、森の中の夜があけかかるように目に映ると、同時に、そこに言合せたごとく、人影が顕われて、門に立ち、籬に立つ。 村人よ、里人よ。その姿の、轍の陰にかくれ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ あるときのことです。村人は、畑から取れたものを持って、おじいさんの庭先へやってまいりました。「おじいさん、これを食べてください。」といいました。 いつものごとく、にこにことして煙草を吸っていたおじいさんは、その日にかぎって、常・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・ 子供は、口に出して、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人は、ついにこれを見つけました。「西の山に、牛女が現れた。」と、いいふらしました。そして、みんな外に出て、西の山をながめたのであります。「きっと、子供のことを思って・・・ 小川未明 「牛女」
・・・ この河童の尻が、数え年二百歳か三百歳という未だうら若い青さに痩せていた頃、嘘八百と出鱈目仙人で狐狸かためた新手村では、信州にかくれもなき怪しげな年中行事が行われ、毎年大晦日の夜、氏神詣りの村人同志が境内の暗闇にまぎれて、互いに悪口を言・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・ 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・やがてその村人にも会わなくなった。自然林が廻った。落日があらわれた。溪の音が遠くなった。年古りた杉の柱廊が続いた。冷たい山気が沁みて来た。魔女の跨った箒のように、自動車は私を高い空へ運んだ。いったいどこまでゆこうとするのだろう。峠の隧道を出・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・自分の村人は自分に遇うと、興がる眼をもって一行を見て笑いながら挨拶した。自分は何となく少しテレた。けれども先輩達は長閑気に元気に溌溂と笑い興じて、田舎道を市川の方へ行いた。 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞、村の・・・ 幸田露伴 「野道」
出典:青空文庫