・・・前の杉山では杜鵑や鶯が啼き交わしている。 ふと下の往来を、青い顔して髯や髪の蓬々と延びた、三十前後の乞食のような服装の男が、よさよさと通って行くのが、耕吉に見下された。「あれは何者だ?」「あれですかい、あれは関次郎というばかでご・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・雑木山では絶えず杜鵑が鳴いていた。その麓に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・まして川霧の下を筏の火が淡く燃えながら行く夜明方の空に、杜鵑が満川の詩思を叫んで去るという清絶爽絶の趣を賞することをやだ。 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走って三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしゃと三木の頬をぶった。 三木は、ふりかえって、「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがって、さっさと着・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・たとえば江上の杜鵑というありふれた取り合わせでも、その句をはたらかせるために芭蕉が再三の推敲洗練を重ねたことが伝えられている。この有名な句でもこれを「白露江に横たわり水光天に接す」というシナ人の文句と比べると俳諧というものの要訣が明瞭に指摘・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫