・・・もっとも些少の東西なれども、こたびの路用を資くるのみ。わが私の餞別ならず、里見殿の賜ものなるに、辞わで納め給えと言う。」――僕はそこを読みながら、おととい届いた原稿料の一枚四十銭だったのを思い出した。僕等は二人ともこの七月に大学の英文科を卒・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公に無条件の美人を見たことはない。作者は女性の描写になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか断っている。按ずるに無条件の美人を認めるのは近代人の面目に関るらしい。だか・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・梢に響く波の音、吹当つる浜風は、葎を渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿深く、峰遥ならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶崖の端へ出て、ここを魚見岬とも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲っ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・――この列車は、米原で一体分身して、分れて東西へ馳ります。 それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 予は此の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・その気根の大なるは東西古今に倫を絶しておる。もしただ最初の起筆と最後の終結との年次をのみいうならばこれより以上の歳月を閲したものもあるが、二十八年間絶えず稿を続けて全く休息した事がない『八犬伝』の如きはない。僅かに『神稲水滸伝』がこれより以・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ いろいろの乞食が、東西、南北、その国の都をいつも往来していますので、その国の人も、これには気づきませんでした。 乞食に姿をかえたお姫さまの使いのものは、いろいろなうわさを聞くことを得ました。そして、そのものは、急いで帰りました。・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ このことは、古今、東西、国を異にし、また種族を異にしても相違のある筈はないでありましょう。こゝに思い至るたびに、私は、戦争ということが、頭に浮び、心が暗くなるのを覚えます。 戦争! それは、決して空想でない。しかも、いまの少年達に・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・八幡筋の夜店というのは、路地を出て十歩も行くと、笠屋町の通りを東西に横切る筋があります。これが道具屋や表具屋や骨董屋の多い八幡筋。ここでちょっと通りと筋のことを言いますと、船場では南北の線よりも東西の線の方が町並みが発達しているので、東西の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・寝転んで東西古今の小説を読み散らし、ころっと忘れてしまった人の方が、新しい文章が書けるのではあるまいか。手本が頭にはいりすぎたり、手元に置いて書いたり、模倣これ努めたりしている人たちが、例えば「殺す」と書けばいいところを、みんな「お殺し」と・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
出典:青空文庫