・・・月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・帯もぐるぐる巻き、胡坐で火鉢に頬杖して、当日の東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。 その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。 たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 麓に遠き市人は東雲よりするもあり。まだ夜明けざるに来るあり。芝茸、松茸、しめじ、松露など、小笹の蔭、芝の中、雑木の奥、谷間に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。 昨日一昨日雨降りて、山の地湿りたれば、茸の獲物さこそとて、朝霧・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・遠けれど恋路は千万里も一里とて、このふたりいつしか深き愛の夢に入り、夜々の楽しき時を地に下りて享け、あるいは高峰の岩角に、あるいは大海原の波の上に、あるいは細渓川の流れの潯に、つきぬ睦語かたり明かし、東雲の空に驚きては天に帰りぬ。 女星・・・ 国木田独歩 「星」
・・・「あれは東雲さんの座敷だろう。さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。 お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送り・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・其一声の鶯は、東雲のクラシカルな藍と茜の色どりと相俟って、計らずも心のおどるような日本の暁の風趣を私の胸に送りこんだ。同時に、私は初めてほんとの鶯を聴いたような新鮮な歓びを感じた。――和歌や俳句の夥しい駄作で、こうも陳腐化されなかった太古の・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
出典:青空文庫