・・・に背負って、揚々として大得意の体で、紅閨のあとを一散歩、贅を遣る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗き、火の見を仰いで、移香を惜気なく、酔ざましに、月の景色を見る状の、その行く処には、返咲の、桜が咲き、柑子も色づく。……他の旅館の庭の前、垣根・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ ずっと前の話であるが、『藪柑子集』中の「嵐」という小品の中に、港内に碇泊している船の帆柱に青い火が灯っているという意味のことを書いてあるのに対して、船舶の燈火に関する取締規則を詳しく調べた結果、本文のごとき場合は有り得ないという結論に・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなっ・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・白樺の細い丸木を組んだ小橋が、藪柑子の赤い溝流れの上にかかったりしていたところからそこへ入って行ったので、乾きあがって人気ない湯殿の内部は大層寂しく私たちの目にうつった。 そしたら、その湯殿が、広業寺の温泉なのだった。尼さんは、いい年な・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・総身の羽が赤褐色で、頸に柑子色の領巻があって、黒い尾を長く垂れている。 虎吉は人の悪そうな青黒い顔を挙げて、ぎょろりとした目で主人を見て、こう云った。「旦那。こいつは肉が軟ですぜ。」「食うのではない。」「へえ。飼って置くので・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫