・・・「それがあの頃は、極正直な、人の好い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしいくらいだったのだ。だから軍医官でも何でも、妙にあいつが可愛いかったと見えて、特別によく療治をしてやったらしい。あいつはまた身の上話をしても、なかなか面白・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 娘が、柔順に尋常に会釈して、「誰方?……」 と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、「何か、用か。」と喚いた。「失礼!」 と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と心得たもので、「照焼にして下さい。それから酒は罎詰のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」 束髪に結った、丸ぽちゃなのが、「はいはい。」 と柔順だっけ。 小用をたして帰ると、もの陰から、目を円くして、一大事そ・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ああ、うつくしい白い指、結立ての品のいい円髷の、情らしい柔順な髱の耳朶かけて、雪なす項が優しく清らかに俯向いたのです。 生意気に杖を持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。「私は……関……」 と名を申して、「蔦・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・「詳しうすれば長なろけれど、大石という人はもとから忠実で、柔順で、少し内気な質であったと思い給え。現役であったにも拘らず、第○聨隊最初の出征に加わらなかったんに落胆しとったんやけど、おとなしいものやさかい、何も云わんで、留守番役をつとめ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 優美よりは快活、柔順よりは才発、家事よりは社交、手芸よりは学術というが女に対する渠の註文であった。この方針から在来の女大学的主義を排して高等学術を授け、外国語を重要課目として旁ら洋楽及び舞踏を教え、直轄女学校の学生には洋装せしめ、高等・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・そして柔順で、献身的であった、妻の愛に救われたというより他に、何ものかありません。『彼は、其の日暮らしに、追われている』と、いう蔑視から、資本家や、編輯者等が、いまだ一介の無名の文筆家に対して、彼等の立場から、冷遇しなかったと何んで言えよう・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・猫が犬よりも人に愛せられないのは、犬のように柔順でないからである。わたくしの父はわたくしが文学を修めたことについて、いかに痛嘆しておられたかは、その手紙の外には書いたものが残っていないので、今これを詳にすることができない。しかし平生儒学を奉・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ この学校は中学の内にてもっとも新なるものなれば、今日の有様にて生徒の学芸いまだ上達せしにはあらざれども、その温和柔順の天稟をもって朝夕英国の教師に親炙し、その学芸を伝習し、その言行を聞見し、愚痴固陋の旧習を脱して独立自主の気風に浸潤す・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・故に婦人は柔順を尊ぶと言う。固より女性の本色にして、大に男子に異なり、又異ならざるをえず。我輩の飽くまでも勧告奨励する所にして、女徳の根本、唯一の本領なりと雖も、其柔順とは言語挙動の柔順にして、卑屈盲従の意味に非ず。大節に臨んでは父母の命を・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫