・・・自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待っている嬶や子供が案じられてなんねえ。」「兵隊にいっていた息子さんは、幾歳で亡くしましたね。」上さんは高い声で訊いた。「忰ですかね。」爺さんは調子を少し落して俛いた。「二十・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳して、纔に一時の責を塞ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後重陽を過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・さすがの御亭主もこれには辟易致しましたが、ついに一計を案じて、朋友の細君に、こういう飾りいっさいの品々を所持しているものがあるのを幸い、ただ一晩だけと云うので、大切な金剛石の首輪をかり受けて、急の間を合せます。ところが細君は恐悦の余り、夜会・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・或る地方の好色男子が常に不品行を働き、内君の苦情に堪えず、依て一策を案じて内君を耶蘇教会に入会せしめ、其目的は専ら女性の嫉妬心を和らげて自身の獣行を逞うせんとの計略なりしに、内君の苦情遂に止まずして失望したりとの奇談あり。天下の男子にして女・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ ピエエル・オオビュルナンは良久しく物を案じている。もうよほど前からこの男は自己の思索にある節制を加えることを工夫している。神学者にでも言わせようものなら、「生産的静思」なんぞと云うだろう。そう云う態度に自身を置くことが出来るように、こ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しかし猫には夕飯まで喰わして出て来たのだからそれを気に掛けるでもないが、何しろ夫婦ぐらしで手の抜けぬ処を、例年の事だから今年もちょっとお参りをするというて出かけたのであるから、早く帰らねば内の商売が案じられるのである。ほんとうに辛抱の強い、・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・その枝に、さっきからじっと停って、ものを案じている烏があります。それはいちばん声のいい砲艦で、烏の大尉の許嫁でした。「があがあ、遅くなって失敬。今日の演習で疲れないかい。」「かあお、ずいぶんお待ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・「どうや、 母はんが偉う案じとる。 わしも、こんなやさかい、来んとよかろう云うたんやけど、行け行け云うたので出て来たんや。 さほどでもあらへんやないか、 やせ目も見えんやないか、なあ。 病後の様に髭を生やして・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。 新橋へ著・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ですが僕はこんなに気楽には見えてもあのように終りまで心にかけて、僕のようなものの行末を案じて下すった奥さまに対して、是非清い勇ましい人物にならなくッてはならないと、始終考えているんです。・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫