・・・ 堂とは一町ばかり間をおいた、この樹の許から、桜草、菫、山吹、植木屋の路を開き初めて、長閑に春めく蝶々簪、娘たちの宵出の姿。酸漿屋の店から灯が点れて、絵草紙屋、小間物店の、夜の錦に、紅を織り込む賑となった。 が、引続いた火沙汰のため・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・緑の箱の上に、朱色の箱を一つ重ねて、手のひらに載せると、桜草のように綺麗なので、私は胸がどきどきして、とても歩きにくかった、というような事を書いたのでしたが、何だか、あまり子供っぽく、甘えすぎていますから、私は、いま考えると、いらいらします・・・ 太宰治 「千代女」
・・・それはコスモスと虞美人草とそうして小桜草である。立ち葵や朝顔などが小さな二葉のうちに捜し出されて抜かれるのにこの三種のものだけは、どういうわけか略奪を免れて勢いよく繁殖する。二三年の間にはすっかり一面に広がって、もうとても数人の子供の手には・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・ わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草くらいに止って、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷となり、・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・草は菫となり、蒲公英となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して来ます。現に今日でも植物学者の・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・次にチンノレイヤの賛は珍ラシキ草花モガト茶博士ノ左千夫ガクレシチンノレヤノ花という歌、四、五年前にある爺が売りに来て小桜草という花とこの花と二種の鉢植を買って、その時春の日や草花売の脊戸に来るという句を作ったので今に覚えとる・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・「うん、そいつはね、おれの所にね、桜草があるよ、それをお前にやろう。」「ありがとう、兄さん。」「やかましい、何をふざけたことを云ってるんだ。」暴っぽいラクシャンの第一子が金粉の怒鳴り声を夜の空高く吹きあげた。「ヒ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向うにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いていました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙のことばの鴾の火のようにひかってゆらいで見えたからです。桜草はその靭やかな・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・ささやかな紙の障子はゆるがぬ日に耀き渡りマジョリカの小壺に差した三月の花 白いナーシサス、薄藤色の桜草はやや疲れ仄かに花脈をうき立たせ乍らも心を蕩す優しさで薫りを撒く。此深い白昼の沈黙と・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ 凍った花 部屋 南向、八つ手のかげ北極、机の上に桜草をさして置いた。四五日行かず。或日見たら、すっかり凍って氷の中に入れた桜草が凋れもせず。一種の驚きと美とを感ず。珍しい経験。 ○女子大学生 ラ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫