・・・鉢植えの椰子も葉を垂らしている。――と云うと多少気が利いていますが、家賃は案外安いのですよ。 主筆 そう云う説明は入らないでしょう。少くとも小説の本文には。 保吉 いや、必要ですよ。若い外交官の月給などは高の知れたものですからね。・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・―― ――椰子の花や竹の中に 仏陀はとうに眠っている。 路ばたに枯れた無花果といっしょに 基督ももう死んだらしい。 しかし我々は休まなければならぬ たとい芝居の背景の前にも。 ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・実は椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽的に出来上った種族らしい。瘤取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・ 五 熱帯魚 喫茶店の二階で友人と二人で話していた。椰子やゴムの木の鉢と入り乱れて並んだ白いテーブルを取りかこんだ人々の群れには、家族連れも多かったが、ともかくも自分らのように不景気な男ばかりの仲間はまれであるように・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ねむの花のような緋色の花の満開したのや、仏桑花の大木や、扇を広げたような椰子の一種もある。背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を指さし「猿が食います」と言った。人糞の臭気があるというドリアンの木もある。巡査は手を鼻へやってかぐまねをし・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・たとえば妙な紅炎が変にとがった太陽の縁に突出しているところなどは「離れ小島の椰子の木」とでも言いたかった。 科学の通俗化という事の奨励されるのは誠に結構な事であるが、こういうふうに堕落してまで通俗化されなければならないだろうかと思ってみ・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・活力の満ちた、しめっぽい熱帯の空気が鼻のあなから脳を襲う。椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつもりだろうといつも思うのであるが、きょうもそう思う。ハワイという国には肺病が皆無だとだれかの言った事を思い出す。妻は濃・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 某百貨店の入口の噴水の傍の椰子の葉蔭のベンチに腰かけてうっとりしているうちに、私はこんな他愛もない夢を見ていたのである。 二 地図をたどる 暑い汽車に乗って遠方へ出かけ、わざわざ不便で窮屈な間に合せの生活を求・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・自分はこのような植物の茂っている熱帯の樹林を想像しているうちにシンガポールに遊んだ日を思い出した。椰子の木の森の中を縫う紅殻色の大道に馬車を走らせた時の名状のできない心持ちだけは今でもありあり胸に浮かんで来るが、細かい記憶は夢のように薄れて・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・そこには、洋服は洋服だが、椰子の木の生えたひろい畑の隅に、跣足で柄の長い鍬をもった林のお父さんと、傍に籠をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」「フーム」「・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫