・・・この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。私はただ、私の俥が両国橋の上を通る時も、絶えず口の中で呟いていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。「それ以来私は明に三浦の幽鬱・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そしてそれから処刑までの出来事は極めて単純である。可笑しい程単純である。 獄丁二人が丁寧に罪人の左右の臂を把って、椅子の所へ連れて来る。罪人はおとなしく椅子に腰を掛ける。居ずまいを直す。そして何事とも分からぬらしく、あたりを見廻す。この・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・B それは極めて稀な例だ。A 昔の人は五七調や七五調でばかり物を言っていたと思うのか。莫迦。B これでも賢いぜ。A とはいうものの、五と七がだんだん乱れて来てるのは事実だね。五が六に延び、七が八に延びている。そんならそれで歌・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・た、鬢の毛を、焦ったそうに、背へ投げて掻上げつつ、「この髪をむしりたくなるような思いをさせられるに極ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極めて、伯母さんには内証ですがね、これで・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・思慮分別の意識からそうなるのではなく、自然的な極めて力強い余儀ないような感情に壓せられて勇気の振いおこる余地が無いのである。 宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を能く知ってる人たちであったから、今だにその画をも見ずその名をすらも知らないものが決して少なくないだろう。先年或る新聞に、和田三造が椿岳の画を見て、日本にも・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 読んで見て、如何にも気持がよく出て居て、巧みに描き出してあると思う作品は沢山あるけれども、粛然として覚えず襟を正し、寂しみを感じさせるような作品は極めて少ないように思う。 併し古い例であるが、故独歩の作品中のある物の如きは、読んで・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・ かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・……それは、今朝になって突然K社の人が佐々木を訪ねてきて、まだ今夜の会場が交渉してないから、彼に行って取極めてきてくれと言って、来たのだそうだ。「……幸いこの家が明いていたから、よかったようなものの、他に約束でもあって断わられたとしたら・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫