・・・ このごろのならいとてこの二人が歩行く内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱の音や狐の声に耳を側たてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々しく歩行かない・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 勘次の母の吝嗇加減を知っていればそれだけ、秋三には彼女の狼狽える様子が眼に見えた。それは彼にとって確に愉快な遊戯であった。 と、忽ち、秋三は安次を世話する種々な煩雑さから迯れようとしていた今迄の気持がなくなって、ただ、勘次の家を一日で・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 女は聞かなかった様子で語り続けた。「わたくしは内へ帰りますの。あちらでは花の咲いている中で、悲しい心持がしてなりませんでした。それに一人でいますのですから。」「あなたはまだ極くお若いのでしょう。ねえ、お嬢さん。」この詞を、フィンク・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝の上へ乗せてお連になる若殿さま、これがまた見事に可愛い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅、なぜだろうと子供心にも思いまし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・しかし舟が、葉や花を水に押し沈めながら進んで行くうちに、何となく周囲の様子が変わってくる。いつの間にか底紅の花の群落へ突入していたのである。花びらの底の方が紅色にぼかされていて、尖端の方がかえって白いのであるが、花全体として淡紅色の加わって・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫