・・・ 内地ならば庚申塚か石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな標示杭が斜めになって立っていた。そこまで来ると干魚をやく香がかすかに彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなく・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ すぐ角を曲るように、樹の枝も指せば、おぼろげな番組の末に箭の標示がしてあった。古典な能の狂言も、社会に、尖端の簇を飛ばすらしい。けれども、五十歩にたりぬ向うの辻の柳も射ない。のみならず、矢竹の墨が、ほたほたと太く、蓑の毛を羽にはいだよ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ やがて、心着くと標示は萌黄で、この電車は浅草行。 一帆がその住居へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。 もっとも、わざととはなしに、一・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 独房の入口の左上に、簡単な仕掛けがあって、そこに出ている木の先を押すと、カタンと音がして、外の廊下に独房の番号を書いた扇形の「標示器」が突き出るようになっている。看守がそれを見て、扉の小さいのぞきから「何んだ?」と、用事をきゝに来てく・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのかほとんどわからないような論文中の一節があれば、それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所が・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる。もちろん短歌の中には無季題のものも決して少なくはないのであるが、一首一首として見ないで、一・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・と云う立札が立ち、役人のいる処や、標示板の立ったはもう二年ほど前の事である。 そのために、湖の様に、澄んで広々と、彼方の青や紫の山々の裾までひろがって居る様にはてしなかった池も、にわかに取り澄まして、近づき難い、可愛げのない様子になって・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫