・・・一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴などの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わたしたところ一番大きな見事なながめです。一体椎という樹は梅雨・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・昼間気のつかなかった樹木が異形な姿を空に現わした。夜の外出には提灯を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要らない夜ということを意味するのだ。――こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一階梯である。 私は好・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ その家は僕の家から三丁とは離れない山の麓にあって、四間ばかしの小さな建築ながらよほど風流にできていて庭には樹木多く、草花なども種々植えていたようであった。そのころ四十ばかりになる下男と十二歳になる孫娘と、たった三人、よそ目にはサもさび・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・ 樹木は、そこ、ここにポツリ/\とたまにしか見られなかった。山もなかった。緩慢な丘陵や、沼地や、高粱の切株が残っている畠があった。彼等は、そこを進んだ。いつのまにか、本隊のいる部落は、赭土の丘に、かくれて見えなくなった。淋しさと、心もと・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・その一生のつとめを終ってしまった樹木が、だん/\に、どこからともなく枯れかけて、如何なる手段を施しても、枯れるものを甦らすことは出来ないように死んでしまった。 土地も借金も同時になくなってしまったことを僕は喜んだ。せい/\とした。虹吉は・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺めはありながら何となく飽かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛云うばかり無し。客窓の徒然を慰むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂とやら云える舗に・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈を歩き回るだけに満足した。そして、散歩の途中でも家のことが気にかかって来るのが私の癖のようになってしまった。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言ってくれる日を迎えても、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・あの樹木の蔭の多い道は大尉の住居からもさ程遠くはなかった。 その翌日から、桜井先生は塾の方で自分の受持を済まして置いて、暇さえあればここへ見廻りに来た。崖下に浴場を経営しようとする人などが廻って来ないことはあっても、先生の姿を見ない日は・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・土蔵の裏手、翼の骨骼のようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五六ぽん見える。あれは棕梠である。あの樹木に覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいま牢のなかにいる。細君をぶち殺したのである。左官屋の毎朝の誇りを、細君・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・原稿用紙を片づけながら、庭の樹木の事など私に説明して聞かせた。それから、ふっと気がついたように、「着物が来ている。中畑さんから送って来たのだ。なんだか、いい着物らしいよ。」と言った。 黒羽二重の紋服一かさね、それに袴と、それから別に・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫