・・・その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、あるいはまた将に走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・フランシスはやがて自分の纏ったマントや手に持つ笏に気がつくと、甫めて今まで耽っていた歓楽の想出の糸口が見つかったように苦笑いをした。「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻の事を考えている。しかし私が貰おうとする妻は君らには想像も出来・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・今の道徳からいったら人情本の常套の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は顰蹙すべき沙汰の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。 が、諸藩の勤番の田舎侍やお江戸見物の杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ この一夜の歓楽が満都を羨殺し笑殺し苦殺した数日の後、この夜、某の大臣が名状すべからざる侮辱を某の貴夫人に加えたという奇怪な風説が忽ち帝都を騒がした。続いて新聞の三面子は仔細ありげな報道を伝えた。この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・遠く隔った、都会の歓楽に酔うて叫んでいる賑かな声も聞かない。また、悲惨な犠牲者の狂い働いている騒がしい響きの混った物音も聞かない。また、二十世紀の科学的文明が世界の幾千の都会に光りと色彩の美観を添え、益々繁華ならしめんとする余沢も蒙っていな・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・そして下宿へも帰れずに公園の中をうろついているとか、またはケチな一夜の歓楽を買おうなどと寒い夜更けに俥にも乗れずに歩いている時とか、そういったような時に、よくその亡霊に出会したというのであった。「……そんな場合の予感はあるね。変にこう身・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金のからんだ訴訟沙汰になるのは、われわれ東洋人にはどうも醜い気がする。何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・それが青春の独特な歓楽をつくり出すところの種箱なのだ。それが青年を美しくし、弾力を与え、ものの考え方を純真ならしめる動機力なのだ。 私は青春をすごして、青春を惜しむ。そして青春が如何に人生の黄金期であったかを思うときにその幸福を惜しめと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 伊豆や相模の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総海岸を最初は撰んだが、海岸はどうも騒雑の気味があるので晩成先生の心に染まなかった。さればとて故郷の平蕪の村落に病躯を持帰るのも厭わしかったと見えて、野州上州の山地や・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・の緩い流れの附近の、平凡といえば平凡だが、何ら特異のことのない和易安閑たる景色を好もしく感じて、そうして自然に抱かれて幾時間を過すのを、東京のがやがやした綺羅びやかな境界に神経を消耗させながら享受する歓楽などよりも遥に嬉しいことと思っていた・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫