・・・ことに老父の怒ったのは、耕吉がこの正月早々突然細君の実家へ離縁状を送ったということについてであった。その事件はまだそのままになっていたが、そのため両家の交際は断えていたのだ。「何という無法者だろう。恩も義理も知らぬ仕打ではないか!」・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言って来ても帰らないつもりか」「帰らないつもりだ」 珍しく風のない静かな晩だった。そんな夜は火事もなかった。二人が話をしていると、戸外にはときどき小さい・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・は言うまでもなく姉のお絹を外に出して自分の子、妹のお松を後に据えたき願い、それがあるばかりにお絹と継母との間おもしろからず理屈をつけて叔父幸衛門にお絹はあずけられかれこれ三年の間お絹のわが家に帰りしは正月一度それも機嫌よくは待遇われざりしを・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 七 蒙古来寇の予言 日蓮はさきに立正安国論において、他国侵逼難を予言して幕府当局をいましめ、一笑にふされていたが、この予言はあたって文永五年正月蒙古の使者が国書をもたらして幕府をおどかした。「日蓮が去ぬる文応元・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ お正月に、餅につけて食う砂糖だけはあると思って、帆前垂にくるんだザラメを、小麦俵を積重ねた間にかくして、与助は一と息ついているところだった。まさか、見つけられてはいない、彼はそう思っていた。だがどうも事がそれに関連しているらしいので不・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから、今年の正月だけはシャバでやって行きたいと云っていた。――俺はそのお爺さんと寝てやっているうちに、すっかりヒゼンをうつされていた。それで、この六十日目に入るお湯が、俺をまるで夢中にさせてしまっ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ この金之助さんは正月生まれの二つでも、まだいくらも人の言葉を知らない。蕾のようなその脣からは「うまうま」ぐらいしか泄れて来ない。母親以外の親しいものを呼ぶにも、「ちゃあちゃん」としかまだ言い得なかった。こんな幼い子供が袖子の家へ連れら・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・としも大みそかが近くなって来ましたし、私が常連のお客さんの家を廻ってお勘定をもらって歩いて、やっとそれだけ集めてまいりましたのでして、これはすぐ今夜にでも仕入れのほうに手渡してやらなければ、もう来年の正月からは私どもの商売をつづけてやって行・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 勇吉はいても立ってもいられないような気がした。「貯金はすぐなくなって了うし……。」 勇吉は絶えずこう思って、例の鉛筆で計算をやって見たりした。 正月が来た。注連飾などが見事に出来て賑やかな笑声が其処此処からきこえて来た。・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・ 暴風の跡の銀座もきたないが、正月元旦の銀座もまた実に驚くべききたない見物である。昭和六年の元旦のちょうど昼ごろに、麻布の親類から浅草の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。荒涼、陰惨、ディスマル、トロストロース、あらゆる有り・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
出典:青空文庫