・・・これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くな・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・「御嶽教会×××作之」と。 茅屋根の雪は鹿子斑になった。立ちのぼる蒸気は毎日弱ってゆく。 月がいいのである晩行一は戸外を歩いた。地形がいい工合に傾斜を作っている原っぱで、スキー装束をした男が二人、月光を浴びながらかわるがわる滑走・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ この墓が七年前に死んだ「並木善兵衛之墓」である、「杉の杜の髯」の安眠所である。 この日、兄の貫一その他の人々は私塾設立の着手に取りかかり、片山という家の道場を借りて教場にあてる事にした。この道場というは四間と五間の板間で、その以前・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そこに描かれているものは、個人の苦痛、数多の犠牲、戦争の悲惨、それから、是等に反対する個人の気持や、人道的精神等である。 手近かな例を二三挙げてみる。 田山花袋の「一兵卒」は、日露戦争に、満洲で脚気のために入院した兵卒が、病院の不潔・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・居たような勢で有りましたが、其の文章の組織や色彩が余り異様であったために、そして又言語の実際には却て遠かって居たような傾もあったために、理知の判断からは言文一致と云うことを嫌わなかったものも感情上から之を悦ばなかったようの次第でありましたが・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
一 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ただ呉れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、そんな方法で旅が出来るものか。だからさ、それを僕が君に忠告してやる。何か為て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何かね。」「はい。」と、男は額に手を宛て・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 先、堯典に見るにその事業は羲氏・和氏に命じて暦を分ちて民の便をはかり、その子を措いて孝道を以て聞えたる舜を田野に擧げて、之に位を讓れることのみ。而してその特異なる點は天文暦日に關するもの也。即ち天に關する分子なり。 次に舜典に徴す・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
出典:青空文庫