・・・ただ何年かたって死んだ後、死体の解剖を許す代りに五百円の金を貰ったのです。いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書と引き換えに三百円だけ貰ったのです。ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡る・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。辱められ、踏みにじられ、揚句の果にその身の恥をのめのめと明るみに曝されて、それでもやはり唖のように黙っていなければならないのだから。私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれな・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ましてその首や首のない屍体を発見した事実になると、さっき君が云った通り、異説も決して少くない。そこも疑えば、疑える筈です。一方そう云う疑いがある所へ、君は今この汽車の中で西郷隆盛――と云いたくなければ、少くとも西郷隆盛に酷似している人間に遇・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々頬に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・いずれ、身勝手な――病のために、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰って、腹を割いた婦の死体をあらためる隙もなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通、庭前で斬られた・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 親仁は流に攫われまいと、両手で、その死体の半はいまだ水に漂っているのをしっかり押えながら、わなわなと震えて早口に経を唱えた。 けれどもこれは恐れたのでも驚いたのでもなかったのである。助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・仲間どもはどうなったか思て、後方を見ると、光弾の光にずらりと黒う見えるんは石か株か、死体か生きとるんか、見分けがつかなんだ。また敵の砲塁までまだどれほどあるかて、音響測量をやって見たら、たッた二百五十メートルほかなかった。大小の敵弾は矢ッ張・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・溝の中に若い娘の屍体が横たわっているという風景も、昨日今日もはや月並みな感覚に過ぎない。老大家の風俗小説らしく昔の夢を追うてみたところで、現代の時代感覚とのズレは如何ともし難く、ただそれだけの風俗小説ではもう今日の作品として他愛がなさ過ぎる・・・ 織田作之助 「世相」
・・・私は医科の小使というものが、解剖のあとの死体の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、学生と秘密の取引をするということを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたっていいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・働いたのは島の海女で、激浪のなかを潜っては屍体を引き揚げ、大きな焚火を焚いてそばで冷え凍えた水兵の身体を自分らの肌で温めたのだ。大部分の水兵は溺死した。その溺死体の爪は残酷なことにはみな剥がれていたという。 それは岩へ掻きついては波に持・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
出典:青空文庫