・・・かれこれするうち、自分の向かいにいた二等水兵が、内ポケットから手紙の束を引き出そうとして、その一通を卓の下に落としたが、かれはそれを急に拾ってポケットに押し込んで残りを隣の水兵に渡した。他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・そして種々の聖母像の中で、どの聖母が最も美しいかを定めようとして、ついにファン・エックの聖母と、デューラーの聖母とが残り、この二つのうちついにデューラーの聖母が最後にサーヴァイブしたのであった。 ファン・エックの聖母は高貴な瓔珞をいただ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。 子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引きの洗面器へ残飯をかきこんだ。 炊事場は、古い腐った漬物の臭いがした。それにバターと、南京袋の臭い・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・指が離れる、途端に先主人は潮下に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌を十分に洗って、ふところ紙三、四枚でそれを拭い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉は魂ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、や・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・それで残りをその男にやった。「髯」は見ている間に、ムシャムシャと食ってしまった。そして今度はトマトを食っている俺の口元をだまって見つめていた。俺はその男に不思議な圧迫を感じた。どたん場へくると、俺はこの男よりも出来ていないのかと、その時思っ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・藍万とか、玉つむぎとか、そんな昔流行った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸が・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことが出来ましたけれど、友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。 あの襟の事を悪くは言いたくない・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・兵隊の旗も土人の子もみんな熱砂の波のかなたにかくれて、あとにはただ風の音に交じってかすかにかすかに太鼓とラッパの音が残り、やがてそれも聞こえなくなるのである。 この序曲からこの大団円に導く曲折した道程の間に、幾度となくこの同じラッパの単・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 家へ帰ってくると、道太は急いで著物をぬいで水で体をふいたが、お絹も襦袢一枚になって、お弁当の残りの巻卵のような腐りやすいものを、地下室へしまうために、蝋燭を点して、揚げ板の下へおりていった。「こんなもの忘れていた」お絹はしばらくす・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫