・・・ 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・私はずいぶん残酷な質問をするものだと思ってあまりいい気持ちはしなかった。おそらくこの女も毎日自分の繰り返している言葉の内容にはとうに無感覚になっていたのだろう。それがこの無遠慮な男の質問で始めて忘れていた内容の恐ろしさと、それを繰り返す自分・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・昔は負惜みをしたものだ、残酷な事も忍んだものだ。今はそれが段々なくなって、自分の弱点をそれほど恐れずに世の中に出す事を何とも思わない。それで古の人の弊はどんな事かというと、多少偽の点がありました。今の人は正直で自分を偽らずに現わす、こういう・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・ そこには全く残酷な画が描かれてあった。 ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向きに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、搾り出されるのであ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・しかるに残酷なる病の神は、それさえも憎むと見えて、朝々一番鶏二番鶏とうたい出す彼の声は、夜もねられずに病牀に煩悶して居る予の頭をいよいよ攪乱するので、遂に四、五人の人夫の手をかけて、彼の鳥籠は病室の外から遠ざけられ、向うの庭の隅に移されてし・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・その無能力者を、刑法では、そう認めず、処罰にあたっては、忽ち同一の主婦が能力者として扱われるという矛盾は、残酷という以上ではないだろうか。日本の民法はしっかりと改正されなければならない。 内縁関係、未亡人の生きかたに絡む様々の苦しい絆は・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。 自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、物の根柢を動かしつづけている栖方の世界に対する、云いがたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情には、喜怒哀楽のすべてが籠っていたようだった。便便として為すところなき梶自身の無力さ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 夕食の時、己がおばさんに、あのエルリングのような男を、冬の七ヶ月間、こんな寂しい家に置くのは、残酷ではないかと云って見た。 おばさんは意味ありげな微笑をした。そして云うには、ことしの五月一日に、エルリングは町に手紙をよこして、もう・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・僕は法隆寺の壁画や高野の赤不動、三井寺の黄不動の類を拉しきたって現在の日本画を責めるような残酷をあえてしようとは思わない。しかし大和絵以後の繊美な様式のみが伝統として現代に生かされ、平安期以前の雄大な様式がほとんど顧みられていないことは、日・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫