・・・貴嬢が掌に宝丹移せし時、貴嬢は再びわが顔を打ち守りたまいぬ、うるみたる貴嬢の目の中には、むしろ一匙の毒薬たまえ刻き君とのたもう心鮮やかに読まれぬ。二郎はかの方に顔を負け、何も知りたまわぬかの君は、ただ一口に飲みたまえと命ずるように言いたもう・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・女を知ることは青春の毒薬である。童貞が去るとともに青春は去るというも過言ではない。一度女を知った青年は娘に対して、至醇なる憧憬を発し得ない。その青春の夢はもはや浄らかであり得ない。肉体的快楽をたましいから独立に心に表象するという実に悲しむべ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・私のあの鳥渡した動作が、どんなに大事件だったのか、だんだんはっきりわかって来て、あのとき、私のうちに毒薬があれば私は気楽に呑んだことでございましょうし、ちかくに竹藪でもあれば、私は平気で中へはいっていって首を吊ったことでございましょう。二、・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては、看護婦、子守娘にさえ易々とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この「つまり」を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。路草を食う楽しさを知らなかった。循環小数の奇妙を知ら・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・なるほどこれは恐ろしい毒薬であると感心もし、また人間というものが実にわずかな薬物によって勝手に支配されるあわれな存在であるとも思ったことである。 スポーツの好きな人がスポーツを見ているとやはり同様な興奮状態に入るものらしい。宗教に熱中し・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。 夕方に駒込の通りへ出て見ると、避難者の群が陸続と滝野川の方へ流れて行く。表通り・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・デモクラシーを神経衰弱の薬、レニンを毒薬の名と思っていた小学校の先生があったそうであるが、自分のはそれよりいっそうひどいかもしれない。しかしレニンやデモクラシーや猫のゴロゴロのほんとうにわかっている人も存外に少ないのではあるまいか。ともかく・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。 例えば市中の井戸の一割に毒薬・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
・・・医者があまり熱心になって狭い専門の範囲を、寝ても覚めても出る事ができないと、ついには妻に毒薬を飲まして、その結果を実験して見たいなどととんでもない事を工夫するかも知れません。世の中は広いものです、広い世の中に一本の木綿糸をわたして、傍目も触・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・当時は、医学上の大発見の為に毒薬を仰いだりした人の話が頭にあったから、そんな犠牲心も起したんだ。即ち私の心的要素を種々の事情の下に置いて、揉み散らし、苦め散らし、散々な実験を加えてやろう。そしたら、学術的に心持を培養する学理は解らんでも、そ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫