・・・暑い時には大切な毛皮が役に立たぬばかりでなく肉の保存も出来ないからである。太十はそれを知って居る。そうして肉の註文を受けたことが事実であるとすれば赤は到底助かれないと信じた。赤犬の肉は黴毒の患者に著しい効験があると一般に信ぜられて居るのであ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ かがんで炉に靴下を乾かしていたせいの低い犬の毛皮を着た農夫が、腰をのばして立ちあがりました。「何か用かい。」「私は、今事務所から、こちらで働らけと云われてやって参りました。」 農夫長はうなずきました。「そうか。丁度いい・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・雪狼のうしろから白熊の毛皮の三角帽子をあみだにかぶり、顔を苹果のようにかがやかしながら、雪童子がゆっくり歩いて来ました。 雪狼どもは頭をふってくるりとまわり、またまっ赤な舌を吐いて走りました。「カシオピイア、 もう水仙が咲き出す・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。 小十郎はもう熊のことばだって・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ どうしてそんな手をしてこの火の気のない室に莞爾としていられるのかと、猶も胴ぶるいをこらえつつ観察したら、その文人の長上着の裏にはすっかり毛皮がつけられていたそうです。私たちも、そんなあんばいにやりとうございますね。 全くあなたがお・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・「お父様、毛皮の外套なんか召すからこの犬、同類だと思うのよ」と、その間にも、父は時々、「シッ! シッ!」と言ったり、砂を抓んで投げつける振りをしたりする。何か本気で不安を感じているらしいのが佐和子に分った。父は、元から犬など嫌い・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・ごく原始的な表現で、例えばより工合よく体にかける毛皮を縫い合わせたいという気持がいつもあって、或るとき或る人間が先の尖った石か貝の片の一方に糸を通す穴をこしらえて針を発明した。コフマンは、女性に名誉を与えて、そうして人類の生活に初めて針をも・・・ 宮本百合子 「家庭創造の情熱」
・・・煖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹えません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がっているようなものですね。」秀麿はこんな話をした。 桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問われて、秀麿は云った・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・無論便所に行くにだって、毛皮の大外套を着たままで行く。まくった尻を卸してしまえば、寒くはない。丁度便所の坑の傍に、実をむしり残した向日葵の茎を二三本縛り寄せたのを、一本の棒に結び附けてある。その棒が石垣に倒れ掛かっている。それに手を掛けて、・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時ヘルマン・バアルはエレオノラ・デュウゼの蒼白い、弱々しげな、力なげな姿を見たのである。 一週間の後にバアルは彼女を舞台・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫