・・・通り筋の毛糸雑貨屋の主人はこの間まで店へ据えた毛糸の織機で一日中毛糸を織っていたが、急に死んでしまって、家族がすぐ店を畳んで国へ帰ってしまったそのあとはじきカフエーになってしまった。―― そして吉田は自分は今はこんな田舎にいてたまにそん・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・マルを膝に乗せて、その食卓に対い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶敷を敷いて、好い香のする薔薇でその食卓の上を飾って見せたものだ。花は何に限らず好きだったが・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・凍え死すとも、厚ぼったい毛糸の類は用いぬ覚悟の様でした。けれども、この外套は、友だちに笑われました。大きい襟を指さして、よだれかけみたいだね、失敗だね、大黒様みたいだね、と言って大笑いした友人がひとりあったのでした。また、やあ君か、おまわり・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい塗下駄をはいていた。僕が玄関へ出て行くとすぐに、「ああ。やっとお引越しがおわりましたよ。こんな恰好でおかしいでしょう?」 それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・鞄から毛糸の頸巻を取り出し、それを頸にぐるぐる巻いて甲板に出て見た。もう船は、少しも動揺していない。エンジンの音も優しく、静かである。空も、海も、もうすっかり暗くなって、雨が少し降っている。前方の闇を覗くと、なるほど港の灯が、ぱらぱら、二十・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・私はすぐさま、どてらに羽織をひっかけ、毛糸の襟巻ぐるぐる首にまいて、表に飛び出した。甲府駅のまえまで、十五、六丁を一気に走ったら、もう、流石にぶったおれそうになった。電柱に抱きつくようにして寄りかかり、ぜいぜい咽喉を鳴らしながら一休みしてい・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・レンコオトも帽子もなく、天鵞絨のズボンに水色の毛糸のジャケツを着けたきりで、顔は雨に濡れて、月のように青く光った不思議な頬の色であった。夜光虫は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるようにへたへたと部屋の隅に寝そべった。「かんにんして呉・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・袖口はほころびて、毛糸が垂れさがって、まず申し分のない代物なのです。戸田さんは毎年、秋になると脚気が起って苦しむという事も小説で知っていましたので、私のベッドの毛布を一枚、風呂敷に包んで持って行く事に致しました。毛布で脚をくるんで仕事をなさ・・・ 太宰治 「恥」
・・・そうして毛糸で編んだ恐ろしく大きな長い羽織の紐をつけていたと想像される。それがその頃の田舎の中学生のハイカラでシックでモダーンな服装であったからである。 第一日は物部川を渡って野市村の従姉の家で泊まって、次の晩は加領郷泊り、そうして三晩・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・ 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋に編上げ靴を穿いた自転車屋の手代とでもいいそうな男が、一円紙幣二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫