・・・早く毛虫に這いのぼられる程の身分になりたい。どれ、きょうも高邁の瞑想にふけるか。僕がどんなに高貴な生まれであるか、誰も知らない。」 ネムの苗。「クルミのチビは、何を言っているのかしら。不平家なんだわ、きっと。不良少年かも知れ・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・てしょげかえっているかと思うと、きょうは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわからぬようなことまでぶつぶつ呟いていたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛虫、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・にこにこ卑しい追従笑いを浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚える・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・犬、蛇、毛虫、このごろのまた蠅のうるさき事よ。ほら吹き、最もきらい也。十五、わが家に書画骨董の類の絶無なるは、主人の吝嗇の故なり。お皿一枚に五十円、百円、否、万金をさえ投ずる人の気持は、ついに主人の不可解とするところの如し、某日、この主・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・そうするとあなたたちはまた、東京で暮して来た奴等は、むだ使いしてだらしがないと言うし、それかと言って、あなたたちと同様にケチな暮し方をするともう、本物の貧乏人の、みじめな、まるでもう毛虫か乞食みたいなあしらいを頂戴するし、いったい、あなたの・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・ 十一 毛ぎらい 子供の時から毛虫や芋虫がきらいであった。畑で零余子を採っていると突然大きな芋虫が目について頭から爪先までしびれ上がったといったような幼時の経験の印象が前後関係とは切り離されてはっきり残っているくらい・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・僕は蟻や蜂や毛虫や大概の虫についてその心持と云ったようなものを想像する事が出来ると思うが、この簑虫の心持だけはどうしても分らない。」 これだけで端書の余白はもうなくなってしまったが、これが端緒になって私はこの虫について色々の事を考えたり・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・その代り今年はこれと変った毛虫が非常に沢山に現われて来た。それは黒い背筋の上に薄いレモン色の房々とした毛束を四つも着け、その両脇に走る美しい橙紅色の線が頭の端では燃えるような朱の色をして、そこから真黒な長い毛が突き出している。これが薔薇のみ・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
・・・その木が生長すると枝も葉も一面に気味の悪い毛虫がついて、見るもあさましいようであったので主人はこの木を引き抜いて風呂のたきつけに切ってしもうた。その時ちょうど町の医者が通りかかって、それは惜しい事をしたと嘆息する。どうしてかと聞・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 雨と風のなかに、毛虫のような眉を攅めて、余念もなく眺めていた、圭さんが、非常な落ちついた調子で、「雄大だろう、君」と云った。「全く雄大だ」と碌さんも真面目で答えた。「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫