・・・――シーワルドの眉は毛虫を撲ちたるが如く反り返る。――櫓の窓から黒烟りが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。狭き出口を争うが為めか、烟の量は見る間に増して前なるは押され、後なるは押し、並ぶは互に譲るまじとて同時に溢れ出ず・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・き人を宿す小家や朧月小冠者出て花見る人を咎めけり短夜や暇賜はる白拍子葛水や入江の御所に詣づれば稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥時鳥琥珀の玉を鳴らし行く狩衣の袖の裏這ふ螢かな袖笠に毛虫をしのぶ古御達名月や秋月どのゝ艤・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見ているから、めちゃくちゃにぶん撲ってしまえ。」「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」 そのときさっきの夏フロックが出てきました。「まあ、まあ、あんな子供をあんたが相手になさることはあ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・それから後も、その人が変ったようになってからも度々あったが別にそれほどいやな、毛虫にさわるような心持にはならなかった。それが今日、今、たった今、あの女のかおを見ると、あのだらけた皮膚の色と、いくじなさそうな様子とが毛虫よりいやに思われて来た・・・ 宮本百合子 「砂丘」
・・・そのほか蛇や毛虫なぞにしても、たいして嫌いではありません。尤も、そばにいられてはいやですけれど、遠くから見るなら別段いやとも思いません。毛虫なぞ綺麗じゃありませんか。そういえば、どんなに綺麗な蛾にしても、灯のまわりを煩さく飛びまわられては嫌・・・ 宮本百合子 「身辺打明けの記」
・・・ 巡査は、毛虫だらけの雑木の中をくぐって、垣根際まで行ったり、裏門の扉によじ登ったりして見た。「このトタン塀はのぼれませんがね、 ちと此の門の方がくさい。 一体斯う云う風に横木を細かく打った戸は、風流ではあるが、足が・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・ 毛虫のように青いではないか。私の驚きに頓着せず俥夫は梶棒を下した。ポーチに、棕梠の植木鉢が並べてある。傍に、拡げたままの新聞を片手に、瘠せ、ひどく平たい顱頂に毛髪を礼儀正しく梳きつけた背広の男が佇んでいる。彼は、自分の玄関に止った二台の車・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・と頭を振ったり何かしていきりたつので、笑ってすんでしまいはしたけれ共、あんなじゃあきっと銀行でも毛虫あつかいにされて居るのだろうと思うと、旦那様、お父さんと一角尊がって居る家の者達が気の毒な様にもなったりした。 極く明けっ放しな・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・ いつも何か大した相談事をしているように、きっちり集まっている町の家々の屋根には、赤い瓦が微かに光り、遠いところから毛虫のような汽車が来てはまた出て行く。 目の下を流れて行く川が、やがて、うねりうねって、向うのずうっと向うに見えるも・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・それは夫が借財というものを毛虫のようにきらうからである。そういう事は所詮夫に知れずにはいない。庄兵衛は五節句だと言っては、里方から物をもらい、子供の七五三の祝いだと言っては、里方から子供に衣類をもらうのでさえ、心苦しく思っているのだから、暮・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫