・・・もっともこりゃ気兼ねをするのも、無理はないと思ったから、じゃどこかにお前さんの方に、心当りの場所でもありますかって尋ねると、急に赤い顔をしたがね。小さな声で、明日の夕方、近所の石河岸まで若旦那様に来て頂けないでしょうかと云うんだ。野天の逢曳・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯を張った。階下は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたの・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・姉妹は源叔父に気兼ねして微笑しのみ。老婦は舷たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。「阿波十郎兵衛など見せて我子泣かすも益なからん」源叔父は真顔にていう。「我子とは誰ぞ」老婦は素知らぬ顔にて問いつ、「幸助殿はかしこにて溺れし・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」 おきのは、叔父の話をきいたり、村の人々の皮肉をきいたりすると、息子を学校へやるのが良くないような気がするのだったが、源作・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・おかみさんはそれを聞くと、お前の母に少し気兼ねしたように、抱いていた自分の子供に頬ずりをした。 窪田さんはこう云っているの。――監獄では大体にやっぱり労働者出身のものが、******して、*****ている。ところが、外では丁度その反・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・だれに気兼ねもなく、新しい木の香のする炉ばたにあぐらをかいて、飯をやっているところだとしたのもある。 ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に、この遠く離れている子の心を見つけた。それには父を思う心が寄せてあって、いろいろなことがこ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・この家だって、私たち結婚してから新しく借りたのですし、あの人は、そのまえは、赤坂のアパアトにひとりぐらししていたのでございますが、きっと、わるい記憶を残したくないというお心もあり、また、私への優しい気兼ねもあったのでございましょう、以前の世・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・そういう気兼ねのいらないのは誠に二十世紀の有難さであろうと思われる。 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・書いてゆくうちに何を書くことになるかもわからないのに、もし初めに下手な題をつけておくとあとになってその題に気兼ねして書きたいことが自在に書けなくなるという恐れがある。それだから、いつもは、題などはつけないで書きたいことをおしまいまで書いてし・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・だから、如何に評判の絵でも、自分に興味のないものは一度きりで見ないで済むし、気に入った絵なら誰に気兼ねもなく何遍でも見て楽しむことが出来る。このような純粋な享楽は吾々素人に許された特典のようなものである。そうして、自分等がたとえ玄人の絵に対・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
出典:青空文庫