・・・しかし、西洋に木造都市の火事の研究がないからと言って日本人がそれに気兼ねをして研究を遠慮するには当たらない。それは、英独には地震が少ないからと言って日本で地震研究を怠る必要のないと同様である。ノルウェーの理学者が北光の研究で世界に覇をとなえ・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・ これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の Caf である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来る・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・そこで青年たちが来る毎に、僕は裏門をあけてそっと入れ、家人に気兼ねしながら話さねばならなかった。それは僕にとって非常に辛く、客と両方への気兼ねのために、神経をひどく疲らせる仕末だった。僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむように、環境・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」と云う方が真実であった。 勿論、直ぐ帰れる・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・すると父は手紙を読んでしまってあとはなぜか大へんあたりに気兼ねしたようすで僕が半分しか云わないうちに止めてしまった。そしてよく相談するからと云った。祖母や母に気兼ねをしているのかもしれない。五月八日 行く人が大ぶあるようだ。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・そしていっぱいに気兼ねや恥で緊張した老人が悲しくこくりと息を呑む音がまたした。 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・勉強している暇 母さまは、須利耶さまのほうに気兼ねしながら申されました。(お前はまたそんなおとなのようなことを云って、仕方ないではありませんか。早く帰って勉強して、立派になって、みんなの為(そんなことをお前が云わなくてもいい・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・私たちのように凝っと机にかじりついているものは、冬は炭のいるのを気兼ねしいしいというのでやり切れないところがあります。第一に手がかじかんで、私のこの一ヵ月継続中の風邪のもとは、つい炭が途切れかかったときの記念です。 それにつれて、昔芥川・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・私の寝起きは、不規則になり勝ちなので、疲れて居る者の邪魔をするのは気の毒であり、気兼ねをするのも、時には不自由に感じますから。 寝室は、寝台、低いゆったりと鏡のついた化粧台。衣裳箪笥。壁はどんな色がよいか。此と云う思いつきもありませんけ・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・それに来年の四月は丁度父母の銀婚式にも当るので、その祝いをしたい時、つまらない気兼ねをするようではよくないと云うこともあったのであろう。急に紅葉館で親類だけを招くことになった。 その事が定って間もなく、或朝、自分が未だ眠って居る時分、祖・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
出典:青空文庫