・・・ 眠られぬ戸に何物かちょと障った気合である。枕を離るる頭の、音する方に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸に脈も通わず。静である。 再び障った音は、殆んど敲いたというべくも高い。慥かに人ありと思い極めた・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、で・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・何となく物騒な気合である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相違ない。「それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫が鏡を眺めたのが同日同刻になっている」「いよいよ不思議だな」この時に至っては真面目に不・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・この気合で押して行く以上はいかに複雑に進むともいかに精緻に赴くともまたいかに解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。 余は最初より大人と小児の譬喩を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度をもっともよく云いあ・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・室の戸を叩く音のする様な気合がする。耳を峙てて聞くと何の音でもない。ウィリアムは又内懐からクララの髪毛を出す。掌に乗せて眺めるかと思うと今度はそれを叮嚀に、室の隅に片寄せてある三本脚の丸いテーブルの上に置いた。ウィリアムは又内懐へ手を入れて・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難から・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・ お君は父親を起すまいと気を配りながら折々隣の気合(をうかがって、囁く様に恭二に話した。 川窪で若し断わられたらどうしよう、東京中で川窪外こんな相談に乗ってもらう家がない。 どうもする事が出来ずに父親が帰りでもしたら又何と云われ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ この頃の交通機関の恐ろしい混雑は、乗り降りの秩序を市民に教えるより先に、腕力、脚力、なにおッの気合を助成した。大いに猛省がいる。女は、自分の息子や良人や兄弟たちに、一台のりおくれても、正しい列で秩序を保つようにすすめなければならない。・・・ 宮本百合子 「女性週評」
・・・間に、田舎万歳の野卑な懸合話をしたり、頭を扇ではたき合ったりするが、愈々本気で水芸にかかると、たかみの見物をしているなほ子までおのずとその気合に引き入れられる程、巧に、真面目にやった。気のない見物を当てにせず、芸当を自分でやってその出来栄え・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・ 私は云われる通りその部屋に入って襖を閉めると間もなく何かが玄関の土間に下された様な気合(がした。 すると、多勢の足音が入り乱れて大変重いものでも運ぶ様な物音が私の居るすぐ前に襖一つ越して響くと、急に私は震える程の恐れにとりつかれた・・・ 宮本百合子 「追憶」
出典:青空文庫