・・・ おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指で向脛へ力穴をあけて見る。「九仞の上に一簣を加える。加えぬと足らぬ、加えると危うい。思う人に・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と落ち付かぬ眼を長き睫の裏に隠してランスロットの気色を窺う。七十五度の闘技に、馬の脊を滑るは無論、鐙さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇しとのみは思わず。快からぬ眉根は自ら逼りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締ばるならん。「さらば行こう。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・妬甚しければ其気色言葉も恐敷冷して、却て夫に疏れ見限らるゝ物なり。若し夫不義過あらば我色を和らげ声を雅にして諫べし。諫を聴ずして怒らば先づ暫く止めて、後に夫の心和ぎたる時又諫べし。必ず気色を暴し声をいらゝげて夫に逆い叛ことなかれ。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・顔は賢そうで、煎じ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適っているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様式によって、主人の趣味に合うように整頓してある。器具は特別に芸術家の手を煩わして図案をさせたものである。書架は豊・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客をふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけ・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・それをのんでいて、いくらかずつおなかのいやな気色を忘れた。 或る時、湯上りに爪を剪っていた。左の指をずっと剪って、右の方になったとき、思い出すともなく思い出して拇指の裏を見たら、魚のめのようなものは二つ、いつの間にかすっかり消えてしまっ・・・ 宮本百合子 「鼠と鳩麦」
・・・それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅が切腹する日だと、母・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・(勝ち誇りたる気色 女。そんならあなたはわたくしのような性の女が手紙を落すつもりでなくて落すものだとお思いなさるの。 男。なんですと。 女。夫を持っていて色をしようと云う女に、手紙の始末ぐらいが出来ないものでございましょうか。あ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・エルリングはこう云って、目を大きくって、落ち着いた気色で己を見た。「誰の。」「わたくしのです。」「どう云う文句かね。」「殺人犯で、懲役五箇年です。」緩やかな、力の這入った詞で、真面目な、憂愁を帯びた目を、怯れ気もなく、大きく・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫