・・・野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟していて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫していた。いったいに、この季節には、べとべと、噎せるほどの体臭がある。 汽車の中の笠井さんは、へん・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・それにこの部屋は、東側が全部すり硝子の窓なので、日の出とともに光が八畳間一ぱいに氾濫して、まぶしく、とても眠って居られない。私は、またそれをよいことにして、貧ゆえでなく、いや、それもあるが、わざと窓にカアテンを取り附けず、この朝日の直射を、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・あのひとに在るのは、氾濫している感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕は、やっぱり教養が、必要だと思う。叡智が必要だと思う。山中の湖水のように冷く曇りない一点の叡智が必要だと思う。あのひとには、それがないから、いつも行・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・そんな言葉は、互いの好意の氾濫を整理する為か、或いは、情熱の行いの反省、弁解の為に用いられているだけなのです。わかい男女の恋愛に於いて、そんな弁解ほど、胸くその悪いものはありません。ことに、「女を救うため」などという男の偽善には、がまん出来・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ いつかある大新聞社の工場を見学に行ってあの高速度輪転機の前面を瀑布のごとく流れ落ちる新聞紙の帯が、截断され折り畳まれ積み上げられて行く光景を見ていたとき、なるほどこれではジャーナリズムが世界に氾濫するのも当然だという気がしないではい・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみにな・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・更に強く更に烈しく打ちつける雨が其氾濫せる水の上に無数の口を開かしめる。忙しく泡を飛ばして其無数の口が囁く。そうして更に無数の囁が騒然として空間に満ちる。電光が針金の如き白熱の一曲線を空際に閃かすと共に雷鳴は一大破壊の音響を齎して凡ての生物・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・去年の初夏、日本出版協会は『テラス』『ロマンス』などからはじまってとくに猥雑なエログロ出版の氾濫を整理しようとして苦心したことがあります。出版綱領実践委員会が集って日本の出版の浄化のために幾たびか協議しました。その過程で非常に注目すべきこと・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・三年経った今日、わたしたちの周囲に、いまはじめて、文学にふれてゆく人のために、最も多い偶然として氾濫している雑誌、小説類は、どんな種類のものだろう。衣、食、住、愛憎の主題に戻って、今日の出版物の多くを眺めると、戦争が社会の安定を破壊し、個々・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
出典:青空文庫