・・・明方物凄い雨風の音のなかにけたたましい鉄工所の非常汽笛が鳴り響いた。そのときの悲壮な気持を僕は今もよく覚えている。家は騒ぎ出した。人が飛んで来た。港の入口の暗礁へ一隻の駆逐艦が打つかって沈んでしまったのだ。鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌ぎ・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ というような心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。 国木田独歩 「武蔵野」
・・・しばし二人は言葉なく立てり。汽笛高く響きし時、青年は急ぎ乙女の手を堅く握り、言わんとして言うあたわず、乙女がわずかに『御身を大切に』と声もきれぎれに言うや『君こそ、君こそ、必ず心たしかに忍びたまえ、手紙を忘れたもうな。必ず……。』 青年・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓で漕ぐ舟、それらのものが春のぽかぽかする陽光をあびて上ったり下ったりした。 黒河からブラゴウエシチェンスクへ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・精米所の汽笛で、やっと、人間にかえったような気がした。昼飯を食いにかえった。昼から、また晩の七時頃まで働くのだ。 トシエは、座敷に、蝿よけに、蚊帳を吊って、その中に寝ていた。読みさしの新しい雑誌が頭のさきに放り出されてあった。飯の用意は・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・その時汽笛が聞えた。それで彼はホッとした気持を感じた。彼は線路を越して歩きだした。後で踏切りの柵の降りる音がして、地響が聞えてきた。 龍介は図書館にいるTを訪ねてみようと思った。汽車がプラットフォームに入ってきた。振り返ってみると、停っ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ これと擦違いに越後の方からやって来た上り汽車がやがて汽笛の音を残して、東京を指して行って了った頃は、高瀬も塾の庭を帰って行った。周囲にはあたかも船が出た後の港の静かさが有った。塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・プラットホームに呆然と立っているうちに、列車は溜息のような汽笛を鳴らして、たいぎそうにごとりと動いた。私たちはその夜は、上野駅の改札口の前にごろ寝をした。拡声機は夜明けちかくまで、青森方面の焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私た・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・霧の甲板にひびく汽笛の音とその反響によってある港の夜の空間が忽然として観客の頭の中に広がるのである。 音が空間を描き出すのは、音の伝播が空間的であって光のごとく直線的でないためである。それがためにまたわれわれは音の来る角度を制限すること・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫