・・・第一の種類に属する人は、その人の生活全部が純粋な芸術境に没入している人で、その人の実生活は、周囲とどんな間隔があろうと、いっこうそれを気にしない。そうして自己独得の芸術的感興を表現することに全精力を傾倒するところの人だ。もし、現在の作家の中・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・濁水を冒して乳牛を引出し、身もその濁水に没入してはもはや水との争闘である。奮闘は目的を遂げて、牛は思うままに避難し得た。第一戦に勝利を得た心地である。 洪水の襲撃を受けて、失うところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破った奮闘の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それが終わったとき、私は自分をそのソナタの全感情のなかに没入させることができたことを感じた。私はその夜床へはいってからの不眠や、不眠のなかで今の幸福に倍する苦痛をうけなければならないことを予感したが、その時私の陥っていた深い感動にはそれは何・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・真に恋愛を味わうものとは恋のいのちと粋との中心に没入する者だ。そこでは鐘の音が鳴っている。それは宗教である。享楽ではない。 清姫の前には鐘があった。お七の前には火があった。そして橘媛の前には逆まく波があった。 恋愛の宝所はパセチック・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。それで、おもしろいことには、劇や舞踊の現象自身は三次元空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためにその視像は実に二次元的な・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・しかし、どうもこの管弦楽というものは、客観的分析的あるいは批評的に聴くべきものではなくて、ただこの音の醸し出す雰囲気の中に無意識に没入すべきもののような気がする。そうする事によってこの音楽が本当の意味をもつような気がする。 これが雰囲気・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そうして、自然と抱合し自然に没入した後に、再び自然を離れて静観し認識するだけの心の自由をもっていた。 芭蕉去って後の俳諧は狭隘な個性の反撥力によって四散した。洒落風からは始めて連歌の概念を授けられ、太田水穂氏の「芭蕉俳諧の根本問題」から・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・そうした短歌の中の主観の主はすなわち作者自身であって、作者はその作の中にその全人格を没入した観があるのが普通である。しかし俳句が短歌とちがうと思われる点は、上にも述べたように花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・ あらゆる文学の中でも最も著しく個々の能知者たる作者が所知者たる対象の中に没入して現われて来るのは詩歌ことに抒情的なそれである。そこには能知者がいっぱいに滲透して所知者の間のあらゆる科学的背理や矛盾は、それによって統一され融和される。そ・・・ 寺田寅彦 「文学の中の科学的要素」
・・・この一条については下士の議論沸騰したれども、その首魁たる者二、三名の家禄を没入し、これを藩地外に放逐して鎮静を致したり。 これ等の事情を以て、下士の輩は満腹、常に不平なれども、かつてこの不平を洩すべき機会を得ず。その仲間の中にも往々才力・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫