・・・というような偶然的な属性を除き去っても、なおこれらのものがその芸術的価値において、没却すべからざる特質を有しているからである。このゆえに自分はひとり天主閣にとどまらず松江の市内に散在する多くの神社と梵刹とを愛するとともに(ことに月照寺におけ・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和の為という目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉心持はない。…・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 学校に於ける画一教育の長所と短所は、すでに世論によって明にされたるが如く、彼等の、社会的という言葉の意味は、個性を没却し、特色を失うということであってはならない、全国一様の教科書は、単に学術的知識を教うるに役立つけれど、その知識が・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・ついにはこの男と少女ということが文壇の笑い草の種となって、書く小説も文章も皆笑い声の中に没却されてしまった。それに、その容貌が前にも言ったとおり、このうえもなく蛮カラなので、いよいよそれが好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ただ相違の点は、一方ではそれ自身には全く無意味な光った線が踊り子の役をつとめているのに、他方では一人一人に生きた個性をもった人間の踊り子が画面ではほとんどその個性を没却して単に無意味な線条を形成している、というだけである。 それだのに、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・現在のアメリカ人にとってきらいなことは、きらいなことだときめるだけですむかのように、それから先の追究をすてているところに、アメリカの明るさと同時に異様な主体性の没却を示している。 そして、巨大な現象をつかみながら、作家の主体的角度が消失・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・ 簡単にいえばあの時分は、プロレタリア作家として自他ともに許していた林君などによって階級性を没却した文学の評価の傾向が強い勢でつくられつつあった時期なのであった。それに対して、もとの作家同盟の先輩たちは、当時の私にはその気持が全くのみこ・・・ 宮本百合子 「近頃の感想」
・・・けれども、彼が愛する日本を暗くしている蒙昧に対して明知を、人間性の無視と没却とに対して、その自立と天然の開花を追求した方向においては、疑いもなく明治、大正年代の進歩人の意欲を正当に代表していたのである。「厨房日記」における梶の見解、その・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
・・・自分一箇の利害は没却して日本における労働問題解決の縁の下の力持、社会へ奉仕するのが商人でなくなったM氏の理想である。 ロンドンにおれば、また相当来客がある。M氏程まだ充分イギリスを内臓へ吸収せぬ後輩、あるいははるばる官費で英国視察に来た・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫