・・・ 漱石のように生き、生涯を終った作家の周囲では、先輩の弟子たち、親友たちが、没後何とはなし家長的位置におかれる。伯林の国立銀行の広間の人ごみの間で、私は不図自分にそそがれている視線を感じ、振りかえってその方を見たら、そこにはまがうかたな・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
私は先日来、福島県下にある祖父の旧宅に来ている。 祖父の没後久しく祖母独り家を守っていたが、老年になったのでこれも東京に引移り、今は一年の大部分空家になっている。夏の休暇に母が子達をつれて来たり、時折斯うやって私が祖母・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・非常に人物の傑れた叔母に育てられ、その没後数年は当時のロシアの富裕で大胆で複雑な内的・社会的要素の混乱の中におかれている青年貴族、士官につきものの公然の放縦生活を送った。 三十四歳になったとき、既に「幼年時代」「地主の朝」「コサック」「・・・ 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・ 鴎外が、そういう見晴らしに向って立っていた自分の二階を、観潮楼と名づけた由来も肯ける。没後、そちらの門から出入りする部分には誰かが住んで、肴町への通りにある裏門に表札がかけられていた。おとなしい門の上に古風な四角いランプ型の門燈が立て・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・又、日本の従来の如く、父の没後は長子が戸主となって、事業から交際まで主となって引継ぎをしなければならないのとは異い、幾人か同胞があれば交際、事業などは各自の選択によって行っている場所では、特に長子が多分の遺産を相続する必要がありません。・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ですから伊藤内閣の時代には所謂正義派で、その生涯では大した金も残さず、しかもその僅かの財産も、没後は後継の人の非生産的な生活や、いろいろな家族内の紛糾のために何も無くなって、母は晩年、自分の少女時代の思い出のある土地の上に、雑草の生えるのを・・・ 宮本百合子 「わが母をおもう」
・・・これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。 このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石の没後にも、一時家を出ていたころに、九日会の日に玄関先で見かけたぐらいのものであった。だからベルリンの日本人クラブで、二十歳の青年になっている純一君から声をかけられたときには、初めは誰かわからなか・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫