・・・もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、灯・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・その中湯が沸騰て来たから例の通り氷のように冷た飯へ白湯を注けて沢庵をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。 布団の中でお源が啜泣する声が聞えたが磯には香物を噛む音と飯を流し込む音と、美味いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・家族のひとたちの様に味噌汁、お沢庵などの現実的なるものを摂取するならば胃腑も濁って、空想も萎靡するに違いないという思惑からでもあろうか。食事をすませてから応接室に行き、つッ立ったまま、ピアノのキイを矢鱈にたたいた。ショパン、リスト、モオツア・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・これはただ牛肉の後に沢庵といいうような意味のものではなく、もっとずっと深い内面的の理由による事と思う。美学者や心理学者はこれに対してどういう見解を下しているか知らないが、とにかく東洋画殊に南画というものの芸術的の要素の中にはこれと同じような・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・何でも、沢庵石のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行いちゃ、御免だ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・夜番のために正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにもかかわらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するの・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・ 午前五時、午前九時、正午十二時、午後三時、午後六時には取入口から水路、発電所、堰堤と、各所から凄じい発破の轟音が起った。沢庵漬の重石程な岩石の破片が数町離れた農家の屋根を抜けて、囲炉裏へ飛び込んだ。 農民は駐在所へ苦情を持ち込んだ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・石を建てるのはいやだがやむなくば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。もしそれも出来なければ円形か四角か六角かにきっぱり切った石を建ててもらいたい。彼自然石という薄ッぺらな石に字の沢山彫ってあるの・・・ 正岡子規 「墓」
・・・「圧しつけられてこそ味の出る沢庵」と、搾取と闘おうとするわれわれの当然の意気組みをそらすような一番始末にいけない「諦め」でフぬけとなるよう、塩梅しているところは巧なものである。 男や軍人が書いたのでは陳腐だというので、警察官の女房などに・・・ 宮本百合子 「『キング』で得をするのは誰か」
・・・同時にだんだん自分達の貧乏世帯のやり繰時代を忘れて、何時とはなく実は沢庵を食べていたという一面は忘れて、祖父の金モール服や二頭立の馬車だの、宮中だのという面だけを記憶の中に蘇らしてくるようになりました。これは日本の一般的な空気が反動的になっ・・・ 宮本百合子 「わが母をおもう」
出典:青空文庫