「何しろこの頃は油断がならない。和田さえ芸者を知っているんだから。」 藤井と云う弁護士は、老酒の盃を干してから、大仰に一同の顔を見まわした。円卓のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の中年者である。場所・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ そう思うと共に陳彩は、獲物を見つけた猟犬のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色も見えないのは、いつの間にか元の通り、錠が下りてしまった・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は呆れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な面をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森から・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そこに姿の油断がある。足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服の褄を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵を摺下って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・東京なりとて油断はならず。また、恐しきは、猿の経立、お犬の経立は恐しきものなり。お犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり、ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上にお犬うずくまりてあり。やがて首を下・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行かくては面白かるまいと、やけ酒を煽っていたが、酔倒れて、それは寝た。 料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて俄に市価を生じたが、就中 喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏参詣が唯一の遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・となると忽ち逍遥博士と交を訂し、続いて露伴、鴎外、万年、醒雪、臨風、嶺雲、洒竹、一葉、孤蝶、秋骨と、絶えず向上して若い新らしい知識に接触するに少しも油断がなかった。根柢ある学問はなかったが、不断の新傾向の聡明なる理解者であった。が、この学問・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・こののち、どんなときに、油断をしてはならないかということを知りました。 春もすぎて、夏のころには、魚の子供は、もう、大きくなりました。やがて、お母さんになりました。小さな白鳥も、大きくなりました。そして、魚は、水の中を気ままに、泳ぎまわ・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
出典:青空文庫