・・・どこに泊まるあてもない。そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。―― それが現実であるかのような暗愁が彼の心を翳っていった。またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種訝かしい甘美な気持が堯を切なくした。・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・なぜなれば居残っている者のうちでも、今夜はどこへ泊まるかを決めていないものがある。この人々は大概、いわゆる居所不明、もしくは不定な連中であるから文公の今夜の行く先など気にしないのも無理はない。しかしあの容態では遠からずまいってしまうだろうと・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・宿屋に泊る客も勿論外米を食うべきである。が、この頃、私の地方の島で四国の遍路に巡る一日五六百人から千人近くの人々にも外米は評判が悪い。路々ぶつ/\小言を云いながら通って行くのを私も二三耳にした。そんな連中が、飲食店に内地米の稲荷ずしでも売っ・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」 子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 桜桃が出た。 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・「今夜は、どこへ泊るの?」「そんな事、僕に聞いたって仕様が無いよ。いっさい、北さんの指図にしたがわなくちゃいけないんだ。十年来、そんな習慣になっているんだ。北さんを無視して直接、兄さんに話掛けたりすると、騒動になってしまうんだ。そう・・・ 太宰治 「故郷」
・・・私は、百花楼というその土地でいちばん上等の旅館に泊ることにきめた。むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押のうえにかかっていた。 私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・八月二十七日 晴 志村の家で泊る。珍しい日本晴。旧暦十六夜の月が赤く森から出る。八月二十八日 晴、驟雨 朝霧が深く地を這う。草刈。百舌が来たが鳴かず。夕方の汽車で帰る頃、雷雨の先端が来た。加藤首相葬儀。八月二・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・しかしどうかすると一晩くらいそこで泊るような必要が起るかもしれない。そうすると夜の燈火の用意が要る。 電燈はその村に来ているが、私の家は民家とかなりかけ離れた処に孤立しているから、架線工事が少し面倒であるのみならず、月に一度か二度くらい・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・ホテル・デュ・パルクに泊まる。子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった。伽藍を見物に行く。案内のじいさんを三リラで雇ったが、早口のドイツ語はよく聞き取れなかった。夏至の日に天井の穴から日が差し込むという事だけはよくわかった。ステインドグラス・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・「ここは顕官の泊るところです。有名な家です」桂三郎は縁側の手摺にもたれながら言った。淡路がまるで盆石のように真面に眺められた。裾の方にある人家の群れも仄かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりな・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫