・・・したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。 しかし小学校へはいるが早いか僕はたちまち世間に多い「いじめっ子」というものにめぐり合った。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物を縫っていた婆やが、眼鏡をかけた顔をこちらに向けて、上眼で睨みつけながら、「また泣かせて、兄さん悪いじゃありませんか年かさのくせに」 といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそう・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ 私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々泣かせたり淋しがらせたりした。またお前たちを没義道に取りあつかった。お前達が少し執念く泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室へ立った間に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、「御苦労々々。」 と、調子づいて、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰してしまったのでさ。政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。政夫さん、私・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・国木田独歩を恋に泣かせ、有島武郎の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿夫人はその頃のチャキチャキであった。沼南夫人はまた実にその頃の若い新らしい側を代表する花形であった。 今日の女の運動は社交の一つであって、貴婦人階級は勿論だが、中産以・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 光治の級にも、やはり木島とか梅沢とか小山とかいう乱暴のいじ悪者がいて、いつも彼らはいっしょになって、自分らのいうことに従わないものをいじめたり、泣かせたりするのでありました。光治は日ごろから、遊びの時間にも、なるたけこれらの三人と顔を・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ 折井は荒木と違って、吉原の女を泣かせたこともあるくらいの凄い男で、耳に口を寄せて囁く時の言葉すら馴れたものだったから、安子ははじめて女になったと思った。 翌日から安子は折井と一緒に浅草を歩き廻り、黒姫団の団員にも紹介されて、悪の世・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・暑いのに泣かせたりなんぞして」 そんなことまで思っている。 彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」という思いは強く刻まれた。「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家へ入れないようにしろ――真実に、串談じゃ無いぜ」 夫婦は互に子供のことを心配して話した。 血気壮んなものには静止していられない・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫