・・・浴衣が泥水でも浴びたかのように黄色く染まっている。多勢の人が見ているのも無関心のようにわき見もしないで急いで行く。若い男で大きな蓮の葉を頭にかぶって上から手拭でしばっているのがある。それからまた氷袋に水を入れたのを頭にぶら下げて歩きながら、・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・推進機でかきまぜた泥水が恐ろしく大きな渦を作って潮に流されて行く。右舷に遠くねずみ色に低い陸地が見える。 日本から根気よく船について来た鴎の数がだんだんに減ってけさはわずかに二三羽ぐらいになっていたが、いつのまにかまた数がふえている。こ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・すぐその前に水を入れた飼葉槽が置いてあるが、中の水は真黄色な泥水である。こんなきたない水を飲んだのだろうかと思うと厭な心持がした。馬の唇にはやはり血泡がたまっていた。 私は平生アンチヴィヴィセクショニストなどという者に対して苦々しい感じ・・・ 寺田寅彦 「断片(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 高架線路から見おろした三河島は不思議な世界である。東京にこんなところがあったかと思うような別天地である。日本中にも世界中にもこれに似たところはないであろう。慰めのない「民家の沙漠」である。 泥水をたたえた長方形の池を囲んで、そうし・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・お腹がふくれると、口が殖える将来を案じて、出来ることなら流産てしまえば可いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。私・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ところどころに泥水のたまった養魚池らしいものが見え、その岸に沿うた畦道に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が虻のうなるように際立って耳につくばかり、あたりは寂として枯蘆のそよぐ音も聞えないのは、日も漸く傾いて、ひとしき・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ 三疋とも、杭穴の底の泥水の中に陥ちてしまいました。上を見ると、まるで小さな円い空が見えるだけ、かがやく雲の峯は一寸のぞいて居りますが、蛙たちはもういくらもがいてもとりつくものもありませんでした。 そこでルラ蛙はもう昔習った六百米の・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次の沼ばたけへはいるのでした。一日がとても長くて、しまいには歩いているのかどうかもわからなくなったり、泥が飴のような、水がスープのような気がしたり・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 黒くひかってそこへ街の灯かげをうつす大都会、地球の六分の一を占める社会主義連邦の首府モスクワの春の泥水をしばいて電車はひどい勢で走っている。今夜は特別な日なんだ。三月八日は世界無産婦人デーである。各区の勤労者クラブでいろんな催しものが・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 二時間ばかり泥水と炭塵にまびれて上って来ると、ドミトロフ君は私を風呂へ案内した。よそから来たものだけを入れる体裁の風呂ではない。みんな一日七時間――八時間の労働をすますと、風呂で体を洗って家へ帰るように設備が出来ているのだ。「訪問・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
出典:青空文庫