・・・いつも銀鼠の洋服に銀鼠の帽子をかぶっている。背はむしろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に脚は、――やはり銀鼠の靴下に踵の高い靴をはいた脚は鹿の脚のようにすらりとしている。顔は美人と云うほどではない。しかし、――保・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・紳士は背のすらっとした、どこか花車な所のある老人で、折目の正しい黒ずくめの洋服に、上品な山高帽をかぶっていた。私はこの姿を一目見ると、すぐにそれが四五日前に、ある会合の席上で紹介された本多子爵だと云う事に気がついた。が、近づきになって間もな・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下・・・ 有島武郎 「親子」
・・・なくなれば、しゃっぽで、袴で、はた、洋服で、小浜屋の店さして、揚幕ほどではあるまい、かみ手から、ぬっと来る。 鴾の細君の弱ったのは、爺さんが、おしきせ何本かで、へべったあと、だるいだるい、うつむけに畳に伸びた蹠を踏ませられる。……ぴ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴が一人、真中に、白襟、空色紋着の、廂髪で痩せこけた女が一人交って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言わず。 ただ、時々……「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・当時の文学革新は恰も等外官史の羽織袴を脱がして洋服に着更えさせたようなもので、外観だけは高等官吏に似寄って来たが、依然として月給は上らずに社会から矢張り小使同様に見られていたのである。 坪内氏が相当に尊敬せられていたのは文学士であったか・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 二郎は、また、砂山の下を、顔まで半分隠れそうに、帽子を目深にかぶって、洋服を着た人が、歩いているのを見ました。 そして、しばらくすると、赤い船の姿はうすれ、洋服を着た人の姿もうすれてしまいました。 二郎は、まるで夢を見ているよ・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・よく、見ると、洋服を被た、一人の紳士でした。「どこへゆくのだろう?」 紳士は、めったに人の通らない、青田の中の細道を歩いて、右を見たり、左を見たりしながら、ときどき、立ち止まっては、くつの先で石塊を転がしたりしていました。「どこ・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・ 私は洋服を持たなかったので、和服のまま検査場へ行った。髪の毛は依然として長く垂れたままであったことは勿論である。丸刈りにしていった方がよかろうと忠告してくれる人もあったが、私は少々叱られても丸刈りにはなりたくなかったのである。ところが・・・ 織田作之助 「髪」
出典:青空文庫