・・・大きい樟の木の枝を張った向うに洞穴の口が一つ見える。暫くたってから木樵りが二人。この山みちを下って来る。木樵りの一人は洞穴を指さし、もう一人に何か話しかける。それから二人とも十字を切り、はるかに洞穴を礼拝する。 3 この・・・ 芥川竜之介 「誘惑」
・・・妻は眼に角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬を右手に提げて小屋から出て来た。「ついて来う」 そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声で動物と・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚の真黒な筋のごとく、二ヶ処に洞穴をふんで、冷く、不気味に突立っていたのである。 ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ―― が、こうした事に、もの馴れない、学芸部・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と夜陰に、一つ洞穴を抜けるような乾びた声の大音で、「何を売るや。」「美しい衣服だがのう。」「何?」 暗を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が芬とする。 六 鼠色の石持、黒い袴を穿いた・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、「一ッきり、洞穴を潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・と洞穴の奥から幽に、呼ぶよう、人間の耳に聞えて、この淫魔ほざきながら、したたかの狼藉かな。杖を逆に取って、うつぶしになって上口に倒れている、お米の衣の裾をハタと打って、また打った。「厭よ、厭よ、厭よう。」と今はと見ゆる悲鳴である。「・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴せる山間の谷なれば、緑樹長に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞穴にこそかの摩利支天は祀られたれ。 遥かに瞰下す幽谷は、・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ 私は、さま/″\の忘れられた懐しい夢を、もう一度見せてくれる、また心を、不可思議な、奥深い怪奇な、感情の洞穴に魅しくれる、此種の芸術に接するたびに、之を愛慕し、之を尊重視するの念を禁じ得ない。・・・ 小川未明 「忘れられたる感情」
・・・底のない墜落、無間奈落を知って居るか、加速度、加速度、流星と同じくらいのはやさで、落下しながらも、少年は背丈のび、暗黒の洞穴、どんどん落下しながら手さぐりの恋をして、落下の中途にて分娩、母乳、病い、老衰、いまわのきわの命、いっさい落下、死亡・・・ 太宰治 「創生記」
・・・その案内で程近い洞穴の底に雪のある冷泉を紹介された。小さな洞穴の口では真冬の空気と真夏の空気が戦って霧を醸していた。N君からはまた浅間葡萄という高山植物にも紹介された。われわれの「葡萄」に比べると、やはり、きりっと引きしまった美しい姿をして・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫